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「社会方言」と「分断」の正体

【2022.7.2追記】コトバが通じない状態て、そんな酷いことなのか。もとい、コトバは通じて当たり前なのか。私は、そうは思わない。
分断て、そんなに良くないことなのか。そりゃあ良くないだろう。「分断は、破綻した棲み分け」だからだ。

 ネット上でも、対面でも、言葉が通じない/通じてなかったという場面が更に加速度を上げて多発しているように思える。趣味の領域含む専門用語や業界用語の類、仲間内でだけ通じる符牒など単語の意味がわからない、その筋で多用される言い回しというか話法がわからない、内輪ウケの冗談のどこが面白いのか笑いのツボがまったくわからないetc. 大雑把に言えば「多様性」の増加がもたらした負の側面とも言えるけど、これ、関西弁とか東北弁といったいわゆる地域方言以外に、職業や趣味、社会階層などの違いに起因する社会方言_※(0)参照_が細分化され、しかもそれぞれの個人が、同時に複数のグループに所属するのが当たり前になって以来、起こるべくして起こっていることだし、「風の時代」をキーワードに解釈/対処したり、流れに乗っていったりすることは、むしろ楽しそうだったりもする。

 まあ、不特定多数を相手に何か言ったりする者にとってはそんな有難い話でもなさそうですが、ここでも私は「日本語はもう駄目だ」説に与する者ではありません。また、短略的に社会の「分断」と結びつけて嘆くのも少し違うんじゃないかと思っています。仮想空間というのかネット上では、それまで無関係だった人間同士のニアミスが頻繁に起こる_※(1)参照_ので、それまで見えなかった棲み分けが「分断」として可視化されただけでしょうとも言えるので。

 私としては、まず、「言い換え」を提案したいと思う。昨今は特に、対人関係を改善する言い換え本が売れたりする一方で、「侵略/解放」といった酷い例はじめ、何かを不可視化し誤魔化すための言い換えも多く見られます_※(2)参照_。が、それらを織り込んだ上で敢えて「分断」を「棲み分け」と言い換えてみたらどうか。月の裏側を照射するように、ダウンライトの照射角を選び直して部屋の雰囲気を変えるように、誤魔化しではないソリューションたらも、そこそこの解像度で可視化される筈だ。理解し合うことが難しい人たちがいる以上、お互いが目に入らないように「棲み分け」ることは現実的な「落としどころ」に違いなく。無闇にこれを壊すことは、行き過ぎたポリコレ同様にマズイ気がする。

 とは言え、本当に理解不能な相手と一切交わらずに生きていけるのか? というと、そこもまた「現実的に」難しいケースも多いだろう。そこで必要になるのが、互いに現実的な妥協点を探しながら根気よく交渉を続けられるだけの体力とスキル即ち「方言」に対する「共通語」な訳で。

 そこで使われる「共通語」は、特定の地域で特定の集団またはクラスター(複数)に属しながら生きている人間にとって、リアリティの低い人工的な言語かもしれない。けど、それは必要なものだと思います。

 余談ですが、私は、上記のような「共通語」の機能を突き詰めていくなら、必然的に「やさしい日本語」に行き着くと思っている。

 という訳で、「方言/共通語」「やさしい日本語/やらしい日本語」などの再整理と使いこなしを、新たな課題として設定。


 写真は、憲法記念日にバンクシー展観ようとはりきって訪れたナレッジシアター前にて。


(0)地域方言と社会方言

 例えば、同窓会の場面を想像されたい。何の同窓会か。何でも良いので抽象的な同窓会の「概念」ではなく「場面」を。彼らは、仲間内でしか通じそうにない、そこそこ特殊な言葉を使い、オリジナルの「言語圏」を形成している。そこには、地元特有の「地域方言」とはまた違う理由で他所では通じなさそうな言葉、ざっくり「社会方言」が混じっている。ざっくり過ぎる? でも「ざっくり」で進める。同じ日本語の「通じなさ加減」は、ざっくり

【 地域方言のバラツキ 】×【 社会方言のバラツキ】

で計ることができる。

 何の同窓会か? に戻る。どこかの街の公立高校(普通科)のクラス会の場合、「地域方言」のバラツキはほとんどないかも知れないが、「社会方言」のバラツキはそこそこあるだろう。卒業してから何十年も経っているなら尚更だ。

 これが大学のゼミや専門学校の同窓会になると、高校の同窓会に比べ「地域方言」のバラツキは大きくなるが、「社会方言」のバラツキの方は逆に小さくなると考えられる。

 一つのポイントは、上記日本語の「通じなさ加減」を図るキーワード「地域方言」と「社会方言」のうち、後者を「クラスター言語」として細かく見ていくことだろう。

 例えばアメリカ人と日本人のように、母親と父親がそれぞれ異なる言語の母語話者である場合、その家庭で話される言葉は、「社会方言」と言うより最早「家庭内クレオール言語」だ。


(I)社会方言の「多様化」と「階層」の乱れ

 社会方言の「多様化」について説明は不要と思うが、「階層」の乱れについては、多少説明が必要かと思う。

 例えば、位階制度の整ったフラタニティー団体では、参入儀礼とセットで特定位階の者のみに与えられる「キーワード」や「しぐさ」が設定されており、そこでは「指すもの」と「指されるもの」の結びつきが保証されている。さまざまな趣味の世界や職業の世界においても、これに似て、相応の熟練度や入れ込み度、役職etc.に応じてアクセスできるように「社会方言」の「階層」は、それなりに整っている。

 ところが、ネット上ではリアルで入手できない情報にも何かの弾みで簡単にアクセスできたりするので、「言葉だけは知ってるけど……」「レシピは入手できたんだけど……」といったケースが多発する。つまり、「それを指す言葉」は知っているけど「それによって指される何か」については知らない/理解できない/経験したことがない。ということであり、こうして「シニフィエなきシニフィアン」が出回ることになる。

 上記のような問題もありつつ、社会方言の階層は、一時的に乱れながらも更に深くなりつつある。また、言葉は、見ることのできる対象の可視化/不可視化即ち認知圏の形成と関係しているので、社会方言の多様化/階層化は、認知可能な現実が多様化/階層化しているということであり、意外な出会いのショートカット/関係性の希薄化またはフェイドアウトが、同時に急速に進むと考えられる。


(2)「言い換え」の功罪

 不可視の対象を可視化することは、「気づき」をもたらしたり「問題解決」につながったりする。反面、「相手を傷つけ」てしまったり「知らなくても良いことを知ってしまっ」たために新たな問題を生むことになる。

 一方、見え過ぎる対象の解像度を下げたり不可視化したり…即ち「ソフトにぼかし」たり「なかったことに」することは、「やさしさ」や「忖度」から行われることが多く「マナー」として定着している面もあるが、誤魔化しの手法としてもポピュラーである。

 お退屈様でした。

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