世界最速の男
世界最速の男は誰か?
そんな話題で持ちきりのソウルオリンピックが行われた1988年、秋。
男子100m決勝。
注目のカードはやはり、アメリカ/カールルイスVSカナダ/ベンジョンソン。
全世界が注目する中、スタートの合図。
結果は9.79秒という当時の世界新記録でベンジョンソンが金メダルを獲得し、世界最速の男となった。
時を同じくして、私、小学1年生。
巷では、
『ピザって10回言って?』
『ピザ、ピザ、ピザ…、ピザ』
(肘を指差しながら)『ここは?』
『ひざ!』
『ブッブー!肘でしたー!』
という出題者の性格の悪さがそこはかとなく出てしまうようなクイズ、10回クイズが流行していた。
私もその10回クイズにはまっていた人間の一人だった。
そんな10回クイズに、こんな問題があった。
こちらも当時耳に残る印象的なCMを繰り出し、流行していたお米「パールライス」。
そんなパールライスをお題にした問題。
『パールライスって10回言って?』
『パールライス、パールライス、パールライス…、パールライス』
『世界で一番足が速い人は?』
『カールルイス!』
『ブッブー!ベンジョンソンでしたー!』
というものだ。
外国人の名前をクイズに使うなんて、ちょっと大人かも…と考えた小学1年生の私は、このパールライス10回クイズをいろんな人に出題したくてたまらなかった。
まずは小学校の同級生だ。
同級生に次々と出題してみるが、相手も小学校1年生。
『世界で一番足が速い人は?』の問いに
『ベンジョンソンってこの間テレビで見た』
『このクイズ知ってる!』
『わからない』という答えが返ってくる。
参ったな、これでは『ブッブー!』と得意げに言えないではないか。
小学1年生のコミュニティは狭い。
同級生という枠はすぐに終わってしまう。
次の相手は先生だ。
先生に出題してみる。
『ベンジョンソン』と答える。
先生もガチだ。
子供相手だとしても、間違えてはくれない。
しかしわざと間違えてくれる先生もいた。
でもそんな見えすいた優しさは私にはいらない。
もっと対等に大人と勝負がしたいのだ。
先生がダメなら親だ。
『ベンジョンソン』
親も甘くない。
答えて余裕な顔さえしている。
誰だ…、誰なら私のこの勝負を堂々と受けてくれて、しかも私が勝てるだろうか…。
!
おばあちゃんだ!
おばあちゃんは、私の見る限りあまりスポーツに詳しくはなさそうだ。ならば、パールライスの流れからついうっかり『カールルイス』と言ってしまうことも考えられそうだ。私、おばあちゃんなら、勝てるかもしれない!
そんな決意を抱き、おばあちゃんに勝負を挑んだ。
『おばあちゃん、パールライスって10回言って?』
おばあちゃんは『?』を浮かべたような顔をする。
いいぞ!おばあちゃんは10回クイズも知らないようだ。なおさら引っかかってくれそうだ!
『いいから、パールライスって10回言って?』
『パールライス、パールライス、パールライス…、パールライス!』
いざ勝負!
『世界で一番足の速い人は?』
一瞬の間が空く。
来い!カールルイス!
こんなにカールルイスの登場を願ったことはない。
おばあちゃんの口が大きく開く!
来た!その口の形は絶対にカールルイス!
私は『ブッブー!』の準備をして口を尖らせる。
『アベベ!』
1932年生まれエチオピア出身
1960年ローマオリンピック
1964年東京オリンピックにて
2大会連続男子マラソン金メダリスト
アベベ・ビキラ
おばあちゃんから力強くそして一点の曇りもなく発せられた答えは、『アベベ』。
急角度から登場したアベベがゴールテープを切ったのだ。
『ブッブー』というために尖らせた私の口はそのまま『ブブブハーーーーーーッ』と吹き出し笑いに変わる。
勝負に勝って試合に負けるというのは正にこういうことなのだろう。
おばあちゃんになら勝てそうだと思った私の浅はかさが悔やまれる。
完全なる敗北感。さすがだよ、おばあちゃん。
私は10回クイズから身を引くことを決め、腹が捩れるほど、おばあちゃんと笑いあった。
人生はなかなか思い通りには進まない。
のちにドーピング検査で陽性が出たベンジョンソンの金メダルは剥奪となり、幻の世界で一番足の速い人となった。