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今やもう夫婦という関係になったというけれど。

はじめに

皆さん、おはこんばんちは。水瀬結愛(みなせゆあ)です。
しばらく更新が途絶えてしまったので簡単に自己紹介から。
山口県は下関市出身の現在大学1年生。
現在は、京都に住んでいます。
中学一年生のころ色々な当時の環境背景から不登校に。
しかし何とか乗り越え、現在大学一年生に。
といった感じです。

今回の話

今回は自分自身のジェンダーに関してつづっていこうかなと思います。

きっかけなど

きっかけは幼稚園のころから少し感じていた部分はありました。
どういうことかというと、私の行っていた幼稚園では戦隊モノを視聴することが禁じられていたので見たことはなかったのですが、当時戦隊モノに分類されなかった「天才てれびくんMAX」を見ていたのですが、その当時、自分自身がふとした時に熱中してみていたコンテンツが「くみっきーの放課後レッスン」という女の子たちがどのようにして意中の彼に意識してもらうためのファッションをするかや、学校に行くときのファッションが一辺倒になるからどうしたら脱却できるかを紹介してくれるコーナーでした。
当時は、周りから男子として扱いを受けていたので、みんなも見るのではないかと思っていたのですが、話を聞いているとどうもそういう類のものは見ていなさそうな雰囲気で、私はいつも周りの蚊帳の外にいるような感覚でした。

その後小学校では….

幼少期そのような感じだったので当然いじめられました。
その後小学校を決めるときに親の意向で公立はダメとなり、私立を受け3校中1校が受かったのでそこに入学しました。
そこに入ったら同じような話ができるお友達が作れるかなととても大きな期待を胸に入学したら1年後からいじめられるようになりました。
最初は自分でも気づいていなかったのですが、エスカレートしていくうちに認識しました。
正直その時代は辛かったです。
いじめの内容は、私があまりにも当時周りではやっていたものに疎くそれを馬鹿にされたり、ハブられたり、何か事件が起こるたびに私のせいにされたり、オカマといわれたりもありました。
そんな小学五年生のある日、当時席が隣だった今も仲のいい女の子がこういうんです「あんた、ほんとは女の子でしょ?」と。
私、それを聞いてびっくりしました。
「なんで?」と聞くと
「そう見えるから」と言われたことを今でも覚えています。
その子は、霊感が強く、当時いろいろなものが見えると教えてくれた子でもあります。なのでとても腑に落ちたというか、なんというか。
「あ、周りの子と違うんだ」と思い知らされて少し気が楽になりました。
本人が当時のことを覚えているか定かではありませんが、その日を境に女子と群れることをしていた気がします。
そして、うちは小中高一貫校で、中学校は試験で入るクラスが変わるという制度だったので一番上に入るべく勉強を頑張り、何とか一番上のクラスに入ることができました。
そして、同じクラスの子たちもおとなしそうでゆっくりと仲良くしていけそうかなと思ってた矢先、ある意味悲劇が起こります。

中学校

中学校の同じクラスの子たちはそれとなくその人のことを尊重しあって協力し合うことのできるクラスメイトだったのですが、問題は、隣、そのお隣のクラスの生徒たちがとても厄介だったのです。
小学校ほどのものはないにしても、相手にしたら、面白がっていじっているだけなのでしょうが、私にとってはとても窮屈でした。
例えば、誰かから聞いたのか外部生の一人から「おかま」と言われたり、私は純粋にダンスをたまたましてただけなのにそれを見つけてからは、踊ってやとクラスまで押しかけられたりと中学に入ってからもさんざんで。
その反面いつも、クラスでは女子とお弁当を食べたり、男子とは一切絡んでなかったような。テスト返却の時の近くの子が男子しかいなくてそこで点数の話をするくらいだったのを今でも覚えています。
でも勉強だけはいつか報われるだろうと思ってやっていたのに、2学期の中間テストでやっとこさ9位(クラス・コース内にて)に入っても、「その程度か」という父。もう何を頑張ったらいいのかわからなくなって、極めつけにはその年度の学年末がインフルで飛ぶという。
正直、今振り返ってもその環境にいたら放心状態で、何もしたくなくなるだろうなと思います。
実際、当時何もしたくないと燃え尽き症候群になり学校が嫌になってしまい不登校になったんです。
自分にとって、あの頃は、『誰も認めてくれる人がいない世界なんて、生きてても苦しいから死にたい、でも親に死ぬのはダメと言われてるからなぁ』となってました。時系列が前後しますが、小学五年の時いじめに耐えられなくなって自殺しようとしたことがあります。
小学校の教室前のベランダから飛び降りようとしたのを今でも覚えています。
その時学年の二人の担任から止められ、音楽室で音楽の先生にひたすらたまっていたものを吐き出していたことも併せて覚えています。
あの先生、元気かな。。。。
それはさておき、その後、すぐ親には「死なないでくれ」と言われたのです。
なので先ほどの思っていたことになるわけです。

不登校の期間①

さて、その中学校の学校に行けなかった期間、どんな心境で暮らしていたのかという話なのですが、4つのことが頭から離れなくて苦しみながら、現実逃避をしていました。
その4つのこと。
1.このまま学校に行かないと勉強すらも味方してくれなくなる。
2.私は男子なのか、女子なのか、わからない
3.母が3年か5年で死んでしまうどうしよう
4.勉強に味方してもらうために、学校に行くとそれもまた疲れてしまって、息が苦しい。
この4つでした。
かといって、ずっと考えててもどうにもならないので私は、ネットという海を漂って、今の自分からしたら傷のなめ合いかもしれないと思いますが、同じように苦しんでる人や、認めてくれる人を探し回っていました。
そこで知り合って、いろいろな価値観や、考え方を教わった気もします。
そうこうしていたら、さすがに自分でも時間を無駄にしてしまっているのではないかという焦りが出てきて。何かできることはないかなと思ったときリア友の薦めで出会ったのが「まふまふさん」でした。当時中学二年生でした。
この方の書く曲は最初薦められた曲が曲だったのもあるのですが、ちょっと私に合わないかなと思っていた矢先2016/08/20にYoutubeに投稿された「彗星列車のベルが鳴る」を聞いて、すごいとなり、これを作られてる方を見たら、過去に薦められたまふまふさんだったことを知り、そこを皮切りに推すようになって、少しした11月にPCでゲーム配信されている方の枠のリスナーをしていたこともあり、最初は配信者になろうと見よう見真似、まとめサイトを頼りながら配信を始めるもセンスがないと挫折し、今度は機材班になろうとPC周りのものについて勉強を始め、いろいろな枠で重宝されるようになったので、その先を行こうと思い、中学三年5月にサイト運営メンバーになり、12月にRaspberry Piという小さなマイコンを譲り受け、いろいろなシステムを作ろうと試みるようになりました。
そのようなことに熱中していると、ほかのことを考えなくて済むからとてもある意味で逃避できていたのかもしれません。

母の死

しかし、この話が進んでいる裏で、母は、実は容体は次第に悪化していっていました。
さかのぼること小6の時、父からこう告げられます「ママさん、あと3年か5年だって」と。
正直、その時はそうなんだくらいにしかならなかったのですが時期に、実感していきます。
中学一年生の時、体育がある日は必ず制汗剤のシートを使って帰っていたのですが、その匂いすらもむせるからやめてくれなど、一番学校の青春をしていると思えたときに限ってそういった形で針を刺されるものですから、正直家のせいで学校が楽しくなくなっていたのも事実かもしれません。
毎日、母親に気を使って帰る日々だったのを今でも覚えています。
そんな生活をしていたら誰も味方がいないなと思い一人で寝るときぼーっとしていることもあれば、動画とかを見て逃避しているときなどがあったと思います。
そのうち学校に行かなくなると、今度は朝に部屋に居座られることが増えました。
とても安心できなかったのを覚えています。
しかし、父は家事を一切しない家庭だったのもあり、正直何なんだろうと思ったので、文句は言われるものの自分なりにできる家事はやっていました。
加えて、当時男性に怒られることが怖くなっていたこともあり、父親が怖かったので半分別居のような形をしてもらったこともありました。
しばらくして、一生のお願いということで、自分の中に新しい風を吹き込んできた「まふまふさん」のライブが当たったからどうしても行きたいとお願いし、一緒に大阪に行った時にはもう症状がだいぶ悪化していたのか歩幅が小さく大阪内を移動するだけでも結構かかったような記憶があります。
正直その時、私は何となく、もう長くないのかなと思ってもいました。
その頃か少し前に病名を何かで聞いたか何かで、少し気になって調べた記憶もあります。それは「関節リュウマチからの間質性肺炎」で難病に指定されているらしかったです。
正直、当時は治らないにしても、奇跡のどんでん返しみたいなものが来て治るかなとか期待をしていました。
がそうもいかず。
2017/11/11 15:39
私の母「美佳」はなくなりました 享年52歳でした。

その後や補足

実際この不登校をしている期間の間に転校したら何か変わるかなとか思い、中三の7月に転校しました。
それでも何も変わらないどころかむしろ悪化したりとか。
とても私は苦しかったです。
それを苦しいと思ってはいけないなと思う時期もありました。

その後、色々な気持ちが整理つかないまま、通夜、葬儀を執り行い、その付近でいろいろなママ友に連絡をしたりとしていた自分の何かがぷつんと切れ、葬儀の後の火葬場まではいけなかったのはとても鮮明に覚えています。
母の亡骸を見たらますます、私が私じゃなくなる気がしたのでやめておいたのが一つの理由ですね。
正直ここまで書いてきて前提のものが抜けたり、つたない文章になっていたりして、読んでいる方にはご迷惑をおかけしているかもしれませんが、温かい目で見守っていただけたら幸いです。

高校受験と高校生活

さてここまでは激動の中学校生活でしたがここからはまだ話せていない、高校受験のお話と、高校入学後の生活です。
中三の11月後半、転校先の担任にどこ受けるか決めてほしいといわれ、当時の自分には、山口の地は合わない、北九州市かないなと謎に決めつけていたこともあり、やめた、小中高一貫のもともとのところへ戻ることを決意し、戻るため試験を専願で受けまして受かったものの、一番下のクラスでした。
今でも自分では悔しいと思っています。一番上のクラスにいたやつが、落ちぶれてしまったと。
何とか頑張って大学で巻き返そうと思うも、当時父とは仲が悪く児童相談所にお世話になるわ、警察にお世話になるわの騒ぎでした。
そんな感じで、勉強もままならず、ただ授業を理解してその先をしない能無しとなっていました。
悔しいとは思うものの、どうやって挽回したらいいか聞ける人間が周りにいたわけでもなく、逆に私が打破するにはを教えていました。
つまり、私の先を行くものは誰だろうと路頭に何度も迷いました。
そして少しして、またいけなくなっていくのです。

不登校の期間②

今度は周りに考えの合う人はいるものの、私に対して腫れ物のように扱う、内部生、内部に一時期いたけど腫れ物にしてくる奴らは全員見下している私の構図ができていたが、それに耐えられなくなったのと、相変わらず家では厳しく育てる一環なのか、褒めてもらえることがほぼないし、むしろ父にも気を使って生きる家の両立が苦しくなったのもあり、休みがちからさらに行かなくなったという感じです。
この期間は逆にほんとにやりたいことが何もなくなって、ただサイト運営でもらえる仕事を淡々とこなしながら、ほかのことから逃避していたのを今でも覚えています。
そして、そうもなってしまうと、不登校センターなるものに入所することになるらしく、入所して、そこに通わなくてもいいものの、どこかまたおいて行かれる、でも行けないを繰り返していました。
そのことも言えず、ただただ親とすれ違い。日々苦しかったなという記憶があります。
極めつけには、高2に入る直前で遠距離で付き合っていた彼女にも振られ、2ヶ月病み、その期間まったく学校に行けず単位が危なくなったので通信に変わる話が出て決定してしまうのでした。

通信に変わってから

自分にとってはとても嫌なことではあるものの受け入れなければならないなと思い、受け入れて、N高編入を進めたのを今でも覚えています。
でも大学で挽回したい気持ちはまだ残っていたらしく、どうにかして上の方の大学に行けないか、試行錯誤するために編入した年の科目数を10にしたのを覚えています。
でもうまいこと自分で勉強しようにもなかなかできず、今度は自習室が欲しくて塾をと言ったものの、それならいい先生つけないといけないとスペシャリストな先生をつけてくれという親を横目に、なんでだろうって思っていたのを今でも覚えています。
親の思う理想と子の思う理想ってこんなにも違うものかと痛感させられたのを鮮明に認識してしまった時でした。
でもその反面、学校の担任の先生はとてもフレンドリーな先生だったりと、居心地がよかったのである意味そこがオアシスみたいなものでした。
3年に上がり、塾とレポートととやるにもなかなか思うように勉強が進まなくて、加えて父の全力すぎるサポートにとても苦しさを感じながら、N高は卒業するも、大学は全滑り。
正直、わかっていたことではあったけど、とても悔しくて、悲しくて、浪人することをやめて、働いてもいいやとも思うくらいには、自分にはなんのとりえもないと思っていました。
が、浪人は確定事項だったので、少しでも距離を取ろうと、福岡市に出ることを決意し、浪人生活を始めました。
しかし、その浪人を始めて1ヶ月で、精神にガタが来てしまい、カウンセラーの先生に、即座に精神科を勧められ受診して薬物療法とカウンセラーの先生に話を聞いてもらう療法の二つを併用しながら受験勉強をといってもやはり、すでに燃え尽きてしまっていることもあってかなかなか進まなくて、正直生きている意味すらないんじゃないかなと思った時もありました。
何の役にも立てない人がこんなとこにいても仕方ないかなとか。
色々なことがありました。
でもまぁなんとか大学とつくところには受かったものの、正直第一志望ではないし、どこでもいいやとなってて、その中で、一番仲いい子のいる大学にしようと思い、今の大学を選びました。後悔はありません。
むしろ後悔しているのは、正直生まれてきたことです。
今でも、たまにいきてていいのかなって思う時が多くあります。
それはジェンダーのことも絡まっているのです。

通信高校から浪人時代にかけて気づいていくジェンダーのずれ

そもそも小学5年生の言われたときから中学校、高1までは、決められたものしかダメだろうし、、、、それに従うしかない、、、そう思っていた矢先の転校で、最初は嫌だなと思っていたのですが、ここで、今まで目を当ててなかった、「自分は男子なのか、女子なのか」に目が行くようになったのです。
そんなに毎日目が行くわけではないものの、自分らしく生きてねの校風だったのもあり、より気にするようになっていきます。
ここまで男子で生きてこさせられたけど、私は本当に男子なのか。
それとも女子なのか。
中学生のころに変声期や、第二次成長期やらが来るのは知っていたけれど、
こんな人もいるよねと自然に受け入れられていた、中学の私のいたクラスがないと気づいてしまい、私は心と体のずれを本当の意味で認識してしまいました。
そこでふと過去のことを振り返ると、私はこうなのにを我慢し続けてきたことを思い出してよりずれてたんだと認識していきます。
でもまだその頃は実家で暮らしていたので、隠れて女の子のものを身に着けてみようと思い、行動したりしてました。
まぁ、ばれていたみたいですがね。
そして浪人生活を始めるとそれが一気に爆発して買う服が女子ものになったりしていきました。
正直、あの当時はくるっていたと自覚しています。
でも、止めるに止めれなかった。
自分の気持ちに蓋し続けることが耐えられなかったからです。
そのくらい、今の性別が嫌いで、気持ち悪いのは一番自分がわかってるんですよねって。

今では….

さて先ほどまでは過去の話をつらつら書いてきましたが今は?という話なんですけども、実は、大学生やってますが結婚をしました。
相手は女の子ですが、正直自分の中では外見とかに一目ぼれしてとかで付き合って結婚したわけではありません。
友達の延長線上から親友になり、そこから恋愛に発展したものです。
正直相手のことは、女の子として見ている時間よりも一個人として見て話をしています。
私からすると、一生パートナーできないで、SRS(性別適合手術)をして、女として生きて生涯を終えるんだろうなとか思っていたのですが、この子に関しては、私がパートナーになりたいと思ってアタックして付き合って一度別れたりもありましたが、もう一度復縁して、結婚しました。
正直自分でも思い描いてなかったストーリーで今でも、ああそうだった
なんてなることもしばしばです。
しかしながら、結婚した今でも、やはり、自分のジェンダーはやっぱり違うんだなって日に日に痛感していて、正直心が折れそうになることもたくさんあります。
でもこの子がいてくれるから頑張らなきゃとか、いろいろ頑張れることもあるのですがやっぱり、悩むときは悩むんですよね。
結局、何してても私って、私の先を行く頼れる先輩や、アドバイスをくれる人っていないんだなってつくづく思います。
まぁ考え方によっては、こんな人生も悪くないとは思うのかもしれませんが、私にとってはいつもどこかしら苦痛になっていたりします。
だれだれが迷惑だとかそんなことを思っているわけではありませんが、何となく、自分には、自分しか信じて、尊敬して、助言をして自分を鼓舞していかないといけないのかなと勝手に思ってしまっています。
よく、漫画や小説にある、「幸せハッピー最高!!!」のような人生なんて本当に存在しないんだろうなとあきらめてることもしばしば。
でももし、仮にほかの私を苦しめてきたやつらが幸せハッピーになってると考えるととても反吐が出ます。
もっとこうすればよかったとか思うようになります。
正直私って生まれてきてよかったのかなって。
自信がないです。
なんか、私ってやっぱ不幸でいるべきなのかなって、いつも思います。
幸せを握りしめてはいけないんじゃないか、と。
ここまで書いてきて、私ってこの世の中で、何をしていけばいいのか、生きてていいのかな、と思います。
でも生きてて、今のパートナーに出会えてよかった点もたくさんあるので、今を楽しむことが大切なのかなと思ったりもします。

最後に

ここまでつたない文章でしたが読んでくださり、ありがとうございました。
正直、今でも、前向きに前向きにと思ってもただ虚無の空間に放り出されたような心境になるものの、やることやらなきゃで何とか現実にしがみつけてる感じです。
生きてるだけでも丸儲けというのもわかるのに、なぜか、何も手につかないとなる日々が多く、とても苦しいです。
それでも、何とか生きてる私ってどうなんでしょうか。

最後になりましたが、改めてお読みいただきありがとうございました。
また更新する日まで。

それでは。

水瀬結愛(みなせゆあ)






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