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CAたちの第2章 Vol.4

乳がんコンシェルジュ 大友明子さん 日本航空 アシスタントパーサー→キャビンコーディネーター
1988年7月~2010年5月

大友明子

今年もピンクリボンフェスティバルの時期となりました。そこで、今回は私と同年入社、セミ同期で乳がんコンシェルジュとして活躍されている明子さんにお話しを伺います。明子さんとは今は廃止されたCA訓練前の地上研修の期間、大阪で同じ寮で生息していたこともあります。取り壊す前の畳3畳のお部屋でしたよね。

明子: そうそう、社会人になって初めての寮生活、衝撃でしたね3畳間で過ごしたひと夏の苦しみと楽しみでも!なんか独特な、古い建物で・・・・生まれて初めて3畳間というものを見ましたし。共同トイレと共同風呂だったわね。そして関西の夏はとっても暑かったですね。笑

3畳間は冷房がなく、扇風機の世界。冷風機を取り入れている当時としては前衛的な人もいましたね。でも、行く前に想像していたよりは、広く感じたような。人間の感覚って実におもしろい。

明子: 今から考えると貴重な体験だったね。大阪、寮生活、空港業務、全て初めてで異次元空間だったわ。

意外にも長い間JALに在籍されていて、それこそ、民営化初期段階からJASとの合併、破綻とある意味すごい経験をされましたね。

明子: そうですね、始めた頃はバブル時代で、世の中全体がウキウキした感じでしたが、2000年に入ってからは暗いニュースも多くなり、最後は・・・・。まさか、あの大企業が倒産するとは思ってもいませんでした。

私はその間のことを他人事としかみていませんでしたが、現場としてはやりづらかったのではないかなぁと。そもそもの破綻の原因は合併だと。話せる範囲で教えていただけますか。

明子: その頃は、私も産休に入ったりしていて、あまりよく覚えていないのですが・・・産休明けて出勤したら、JASの方々が一緒に働いていた、っていう感じかな。現場は、粛々と、みんな頑張っていましたよ。もともとどっちの会社だろうと、お客様に喜んでいただくことが一番嬉しいという思いに変わりはなかったので。

そのスピリット! お客様に喜んでいただくことが一番嬉しい。これを忘れたら再生はなかったと。結局のところ、SPIRIT が大切ですよね。
現在、明子さんは社会に向けてご自身の病気の体験を発信していると聞いております。その辺りを中心に今回はお話いただけたらと思います。
私はたまたま前職で36歳以上、年一回会社持ちで婦人科検診を受けられましたが、女性が多い職場でも自己管理なのね。補助等はありましたか。会社で何もないと自治体主催のものに目を向けたらよいのでしょうか。

明子: 親戚に乳がんの人がいなかったし、それまでいたって健康だったので、がん検診も人間ドックも行ったことがなかったです。会社で行う年検診とがん検診の違いもわからないぐらい、今から考えると健康管理に対して無知でした。ちなみに、JALでも婦人科検診は受けられたのですが、自分で一般の病院とかクリニックを予約して行かないといけなかったのよね。行っておけばよかった。

いや、私も同じ状況だったら、わざわざ区の検診とかクリニックを予約してまでいかなかったと思います。起業した途端、そういう手続きを自分でやるのも面倒になったのも事実です。

明子: 辞めてなかったら気づかなかったかもしれないというのは、もしかすると気づけってことだったのかな。

きっとそうです。

明子: 会社を辞めたことをきっかけに、生まれて初めて自治体のがん検診を受けに行ったのね。その時、マンモグラフィー無料券(港区では隔年無料)というのが入っていたので、じゃ、ついでに受けてみようかなという、軽いノリで受けてみました。その後すぐに連絡が来て。なので、その前年にマンモグラフィを受けていたら、もう少し小さめで見つけられたかもしれないと思います。(小さすぎだったらわからなかっただろうから、その場合は変わらないけどね。)

若いころは健康診断など怖いと思わなかったけど、40前後から何かでるのではないかと苦痛になってきたけど明子さんはどうですか?

明子: 私は、全然!再検査に呼ばれてエコーしている時も、寝落ちしていたぐらい。それぐらい、健康には自信満々でした。

な、なんと、おおらかな。
子育てとか仕事とか忙しいとなかなか自分の健康とかに心を傾けることが難しい状況でしたか?

明子: そうねー、当時娘が9歳と4歳だったので、自分の健康管理をするなんていう時間はそもそも無かった、と言っても良いかな。いつも先のこと考えていたから、「今」のこと、まして今の自分の健康のことなんか全く考えてなかったわ。

私の仲良かった先輩は、発覚する直前くらいに、急にいつもは口にしなかった健康について語るようになり、万歩計をつけたりスイミングを始めたりしていました。もしかするとその辺りから不安なことでもあったのかなと思ったことがあります。


明子: あ、そのお話はちょっと噂にお聞きしました。残念でした。ひょっとしたら、体の異変に気がついていたのかもしれませんが。

『切る』、ということは、当事者にならないと本当の気持ちはわからないでしょうが、とても覚悟がいることだと思います。、周りから色々と話を聞いていますが、どんなに医療が進歩しようと、怖いし色々な考えが巡ってしまう。その時、どんなことを考えましたか? 

明子:告知された時は、まさに青天の霹靂だったのですが、悪性腫瘍と言われると、とにかく取りたくなってしまい、後先考えず、「とにかく切ってください!!」と言って速攻手術しました。本当ならもっとじっくり考えてもよかったのですが、その時は、がんについて無知だったから、とにかく取るしか考えられなかったのね。「あ、これじゃ子供とお風呂入れないじゃん!」って、退院してから気が付いたぐらい先のこと全く考えてなかった。

明子さんらしい。それで、どのようにして気持ちを整理していけたのか伺いたいです。

明子: 私の場合は、術後、乳がんについて、調べまくり勉強しまくりました。夫が、そんなに知りたいなら医大に行ったら?っていうぐらいずっと勉強していました。知識がないと不安が大きいけど、勉強することで現実を理解すれば正しく恐れられるでしょ?自分でどうにか出来ることとどうしようもないことの境界も見えてきたし。そうしたら、余裕が出てきた気がします。あと、ブログを書いていました。愚痴とかいろいろ。匿名で吐露し続けていたら、読者が増えたりして、それも楽しくなってきたりして。


私の母も全く違う病気ではありましたが、自身が服用する薬についてはものすごく勉強して、わからないことがあれば担当医師にしつこく聞いていました。自身で安心したかったのですね。それと人は自分の内なる思いを外に出すことで楽になっていくのですよね。本当に。
その後、逆側にまた乳がんが出来た時、どのように心を保っていきましたか。

明子: これは、想定外だったので、とても驚いたけど、対側に乳がんができる確率は10%と言われていて、結構いるはずなので、ああ、当たっちゃったわ、みたいな。振り出しに戻った、と思った。幸い、それまでの経験があったので、治療自体は何をするのかわかっていたから怖いとかそういうのはなかったです。

こうした経験をもとに新しい仕事というか、使命をみつけ活動されたきっかけについて教えてください。

明子: 当初、私が勉強していたのはあくまで自分のためで、他人に発信する気は全くなかったのです。でも、勉強していくうちに、「なんでこう言うことをわかりやすく説明してくれる人がこんなに少ないんだろう?」と思い始めて。同じ頃、毎日もうすぐ死んでしまうかもとおどおどしながら2年間暮らしていたら、割と元気になってお金だけがなくなっていきました。で、そろそろ働かないと!と思ったわけ。しかし元CAなんで事務作業全く出来ず・・・。そんな時に、がん関連のNPO法人の人が「何も出来なくてもいいからいらっしゃい」と言ってくださって。あ、その人も元JALのCAだったわ。おかげで、一通りのオフィスワークのお勉強をさせていただき、さらに新規企画やプロジェクトも持たせていただけようになった。そんな中で、自分の使命が確信出来るようになってきた気がします。患者支援というのは、コミュニケーション力が重要で、前職の経験がとても役立つ分野です。医療者と患者の架け橋的な役割も、結局はコミュ力がキーなのだと感じています。

今の活動は、子供たち、学生を対象に講演を続けていらっしゃるという中で、彼らに一番に伝えていることは何ですか? 若い人たちはどのように受け止めてくれていますか。高校の同級生が20代後半ばで乳がんで亡くなったのが今でも哀しい出来事です。

明子: 今私が関わっている活動の一つに、小中学生への「がん教育」というのがあります。小学校6年生と中学校3年生に、自分のがん体験を通して、がんについて知ってもらう活動です。今どきの子供たちは、あまり病気の人に会ったことがないのか、私を見ただけでもびっくりしちゃうというか・・・。だって、がん=死、と思っているからこんな元気な人が出てきてびっくり、みたいな。がんになっても、働いている人たくさんいますよ、私みたいに元気に暮らしている人もいますよ、っていうことも伝えています。みんな、あ、そうなんだ、がんになったからって、すぐに死んじゃうんじゃないのね、って理解してくれます。もちろん、亡くなってしまう方もいらっしゃるけど、それはがんという病気がまだまだわからないことがあるから。すべて解明されているわけではないからね。がんを正しく理解し、溢れる情報の中から正しい情報を選択し、慌てずに対応できる人になってもらいたいと思っています。子供の頃から出来たら百人力だよね。

ここでも亡き母のことを思い出します。母は私を産んでからリウマチを患い、できることが日に日にできなくなり、別の病気も併発し、私が大学生になるころには車椅子生活を送り、入退院を繰り返しました。こうした人の気持ちを知りたいと東大の学生さんがうちに話を聞きに来たのですが、母があまりに明るくて驚いたのを覚えています。正直、くらーい話になることを覚悟していたとか。母は明るい人でした。毎朝起きるたびにいろいろな痛みがあるにもかかわらず、毎日に感謝し楽しく生きようとする前向きな人でした。私はそれが当たり前のように育ってしまいましたが、学生さんの反応を聞いて、はっとしました。


明子: 最近の子供たちは情報が先行しているから、がん=死、と思っている子がかなり多い。がん患者って聞いただけで、なんて声かけたら良いのかわからない!など、彼らなりに色々悩んでいるみたいです。特に、最近は核家族化が進んでいて、人の死ってあんまり体験しないでしょ、親世代も含めて。おじいさんやおばあさんも、遠くに住んでいたりだと年に数回しか会えなくて、最後は入院してしまったり。人生の最期の姿に寄りそう体験が少なくなっていることによって、余計に「死=恐怖」みたいな考えを創出してしまっているようで、とても残念なことだなと思っています。

核家族化とともに、実体験ではなく、外からのレクチャーが必要になるわけですね。企業での講演はどうでしょうか。

明子: 企業でお話しすると、「実は母ががんで闘病中で・・・」とか、ご家族にがん患者さんがいる方がけっこう多いです。仕事をしながら、介護もしないといけないというご苦労をなさっている方が多い気がしました。40代50代、仕事も家庭も一番バリバリやりたい多忙な時に介護が重なると、ご自身の健康どころではなくなってしまうよね。でもそんな時こそ、ご自分を労らないと。全て抱え込まないようにと声かけさせていただいたり、相談先をご紹介したりしています。今こそ「大人のがん教育」が必要だね、と仲間と話しています。

わかってほしい。理解してほしい。それにはわかってくれる人、理解してくれる人が必要ですよね。病気は同じ病気になった人との対話で救われることがたくさんあります。これまでの活動でどのようなことにエネルギーを注いでいますか。また、どのようなことが一番難しいでしょうか。

明子: やはり同病の方とお話しすることは、助けられるし元気をいただくし、癒されます。乳がん患者さんのためのワークショップを始めて8年目になります。小さい団体ではあるけれど、アットホームに集まってはワイワイやって、楽しんでいます(コロナ禍の現在はzoom開催)。こういう活動は、人のためにやっているようで、結局、自分が一番癒されて元気をいただくので、参加者の皆様には感謝感謝です。
私は、前職の経験が最も生かせると感じている、患者さんとパーソンtoパーソンに関われる領域で活動しています。ここで私が大事にしていることは、一度関わった方とは、相手がもう会いたくないと言うまで手を離さない、ということ。これはなかなか難しいです。
あと、日本で初めて、男性乳がんの患者会を作りました。昨年まで勤めていたNPO法人キャンサーネットジャパンという団体で活動していた時に立ち上げたのね。男性も乳がんになるってことを、知らない人も多く、病院に行くのが遅くなってしまうということが起こっているの。年間1000人未満の日本人男性が罹患しています。このことも知っておいていただければきっと誰かの役に立つのでお伝えしておきます。

私も男性の乳がんについてはつい最近知りました。こんなに情報があふれている世界で、こんなに情報があふれているからこそ埋もれてしまうことがあるのですね。明子さんの活動に今後も注目です。お伝えきれないことがたくさんあるので、第2弾も考えております。どうぞ宜しくお願いいたします。

明子: 第2弾??まあ、楽しみです。よろしくお願いいたします。第二弾があるなら、男性乳がんについてごっそりそっちに持って行ってもいいかもですね。

本当に勉強になりました。ありがとうございました。

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