第九回 さまざまな愛の形 『霊訓 第九回(※長文注意)』
第九章 愛のかたち
私たちは呼吸をすることができます。喉が乾いたら水を飲み、お腹がすいたら食べ物を食べます。これらのうち一つでも欠ければ、私たちは生きていくことができません。いつでも、それがあることが当たり前になっているので、無くして初めてその大切さに気がつくことがあります。
私たちは身のまわりにある愛にどれだけ気付いているのでしょう。愛は無限の形態をとって現れます。たとえば、本書の始まりで守護霊の話をしたことを覚えていますでしょうか。
私たち一人ひとりを見守ってくれる姿の見えない兄弟姉妹を、私たちは守護霊やガイドと呼んでいます。決してそれは私たちとかけはなれた存在ではありません。彼らもかつては地上に生を受け、今の私たちと同様に悩み、苦しみ、時には道に迷った経験があるからこそ、私たちを教え、導くことができるのです。
ですが、私たちを導いてくれるのは彼らだけではありません。例えばあなたのまわりにも、目に見える守護霊がいて、あなたの成長を手助けしてくれています。
いつも笑顔で話しかけてくれる人だけではなく、あえて厳しいことを言ってくれる人や、私たちを不快にさせたり、困らせたりする人ほど、私たちの成長に大きな貢献をしてくれています。時々思います。もしかしたら彼らは本当は天使で、私たちにそうとは気付かれないように、密かに導いてくれているのではないかと(ですが、それは絶対に秘密にしておかなければいけないことなので、彼らが天使であることは私たちには知る由もありません……)。
地上を去って霊界へ進んだ時に地上の執着から解き放たれることを手助けするために、進化の進んだ霊が私たちには正体を隠して付き添うことがあるそうです。ですが、この地上も霊界の一部分なのですから同様のことがあってもおかしくはない、そう思うと私たちを困らせる人々にたいして見る目が変わるような、そんな気がしませんでしょうか。
人生は神との対話だと言います。様々な状況を通して、神は常に私たちに問いかけます。この選択は本当に間違っていませんか? あなたなら、こんな時どうしますか? と。しかしどんな時でも私たちが正しい判断ができるようにと、神は私たちに心強い友を授けてくれました。
私たちが人間として生きることを決断したとき、この分離の世界に一緒に降りてきてくれる兄弟がいます。守護大天使と呼ばれる存在で、彼は私たちの全ての転生に付き添い、私たちの永遠のパーソナリティーと共同で働き、そして私たちとひとつになって行く末を導いてくれます。私たちが道を外れそうになった時、良心の呵責を感じるのは彼の働きに依るものです。
永遠のパーソナリティーは、私たちが地上に転生する前に、どのような人生を経験するかを守護大天使と共に計画します。そして、自分の成長のためにはどのような環境がふさわしく、どのような両親のもとへ生まれるか等を決定して現在のパーソナリティー、つまり今、地上で生きている私たちを地上に送り出します。
そして、航海士が星々の動きを見て針路を決めるように、彼らは計画に従って私たちの進むべき方向を指し示してくれます。もしも道から逸れたら、人生の鞭と呼ばれる痛みを味わうことで私たちは航路を修正して行くのです。人生の鞭とは、例えば病気になる事などとして表現されます。
本当ならば、このような痛みを伴わずに成長できることが望ましいのですが、辛い経験を体験しなければ人は目に見えないものを求めようとはしないのです。全てが満ち足りて、人生にたいして何の不満もなく、心配することもないようなら、人は自分を成長させようと努力するでしょうか?
しかし私たちは、真理を学ぶことによって人生から来る痛みを経験せずに成長することができます。私たちが進むべき正しい道を知って、摂理に沿って生きていけば成長するのも早いですし、辛い思いもせずに済むのです。そういう意味で、このように真理を知る機会を得られたことはとても幸運なことではないでしょうか。
本章の冒頭で「求めるものには与えられる」という言葉をご紹介しました。ですが、裏を返せば求めないものには与えられないのです。
人間は、自分が望む方向にしか進むことはできません。自らが成長を求めなければ、その人は永遠に成長することはないでしょう。世界がどのようにできていて、自分はなぜここにいるのか、何のために生きているのかを知りたいと思わなければ、それらを知ることはできないのです。
豚に真珠を与えるなかれ、という言葉もキリストが遺した言葉ですが、これは条件が整わなければ、決して真理は受け入れられるものではない、という意味です。
真理を学ぶことがどれだけ有益で価値あることかを知ると他の誰かに教えてあげたくなるものですが、受け入れ態勢の整っていない人には絶対に受け入れられないものなのです。無理に教えようとしても反発されたり、逆に心配されたりするだけですので、真理は決して押し付けないことが肝要です。真理とは、気がつけばいつも路傍に咲いている小さな雛菊のようなものなのかもしれません。いつか時が来れば求める人の手に渡るでしょう。私たちにできることは、その人が手を伸ばすことを祈るだけなのです。
私たちの周囲を観察してみれば、目に映る全ての人や物事に愛が写し出されていることに気がつきます。すると私たちがここでこうして生きていることこそ、愛の現れだということにも思い至ります。心臓の鼓動は誰が鳴らしてくれているのでしょう。身体を流れる血液はどうして温かいのでしょう。怪我をしても治癒するのは、誰が治してくれているのでしょう。
私たちの肉体は、神の聖霊と火、水、気、土の基本元素を司る大天使と天使たちによって日々更新され、維持されています。もしも、彼らの働きがなければ私たちの肉体は崩壊し、地上で生活することはできなくなってしまいます。
彼らはたとえ私たちがどんなに愚かで、どんな過ちを犯したとしても完全なる愛をもって働いてくれるのです。そこには一切偏見は存在しません。これこそまさに、無条件の愛です。
私たちは弱く、すぐに感覚の誘惑に押し流されてしまいそうになります。真理に対する無理解のために、神に物質的な欲望を叶えてほしいと願います。しかし、そのような願いは聞き届けられることはありません。そんな願いがもしも叶ったとしたら、私たちは本当の幸せからどんどん遠ざかってしまうのですから。
父は私たちの求めるものを、祈る前からすでにご存知です。ですから、私たちが考えるどのような良いものよりも、さらに良いものを神はすでに与えて下さっているのです。
ただ私たちだけが、その本当の価値を知らないだけなのかもしれません。
最終回へ続く
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