涙の理由
泣くつもりもないのだけれど、涙が溢れてくるのです。
口では「もう大丈夫。」というのですが、自分でも「もう大丈夫。」と思っているのですが。
涙が溢れてくるのです。
いつもではありません。
一人部屋で過ごしていても、泣くことなんてありません。
写真は、先日ぶらぶらと歩いているときに見つけた教会です。
教会のテッペンの十字架を見つけたとき、吸い寄せられるように足が教会に向かっていました。
今月の日曜日は、全部しごとだったはず...。と、頭に浮かんできました。
ずいぶんと日曜日の教会に足を運んでいなかったことにも気がつきました。
吸い寄せられるように教会の敷地の中へ足を運びました。
入って大丈夫かな...。
教会だもの大丈夫かな...。
そんなふうに、そんな気持ちで。
そして撮った写真。
昨日、インスタで、この写真にこんなことばを添えました。
ただ歩いていたら見つけました。
何というか、込み上げるものがありました。
広い敷地の中に思わず入っていきました。
平日だからでしょうね、誰かを見つけることはできませんでした。
ただただ、思うこと色々が、込み上げて来ました。
離婚は過去だと頭では理解しているのですが、心が少し追いついていないようで、今でもよく泣くのです。理由もなく涙が出るのです。
悔しいとか、悲しいとか、はっきりとわからないのです。
涙がただ溢れるのです。
理由もなく?
理由はあるのでしょう。
どうやって、その理由に向き合えば良いのかわかりません。
自分では乗り越えているつもりなのですもの。
意識して泣いているのなら、それは私がコントロールできるのかもですが、気がつけば涙が溢れていることが多く、一人のときはいいのですが、誰かと一緒だと少々困りものです。
何ていうか、ぶっちぎりで「病んでる人」です。
ただ、一人のときに泣くこと、最近ではありません。
前は、いつも一人で泣いていましたけど。
最近は、人の優しさに触れると涙が溢れてくるのです。
去年の離婚のこと。
去年を思うと、今でもやはり辛かったな...と思います。
かといって、悲しみにくれる感覚はありません。
ただ、人の優しさに触れると涙が溢れてくるのです。
楽しい空間にいると、色々あったけど、今は楽しくて。
そして、去年のできごとが、人ごとのようにも感じられて。
厳しく、優しく、私を気にかけてくれる人がいます。
厳しさにも、優しさにも、私はなぜかことばがありません。
厳しさは、優しさだ、ということが身にしみます。
否定も、肯定もありません。
ただ、その優しさに触れると、ことばを失い涙が溢れてくるのです。
現実に心がついて来なかった去年の私。
もう、現実に心は追いついたと感じている今年の私。
それなのに、涙は出ます。
優しさに触れると涙が出ます。
優しさに触れて涙が出る。
どうしてだろう?
理由がわかりません。
理由はあるはずなのに。
どうすれば、その理由を見つけ出せるのでしょう?
どうすれば、その理由と向き合えるのでしょう?
いつまでも泣いていたくないのです。