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しきから聞いた話 107 食堂の護符

「食堂の護符」

 早朝に散歩でよく通る道筋に、いつのまにか飲み物の自動販売機が設置されていた。

 あたりは田んぼや畑なのだが、近くの高校への通学路ではあるし、人の通りもある道なので、置かれたこと自体に不思議はなかった。考えてみれば、ここを散歩で通るのが早朝ばかりなのは、日中だと人通りが多いからだ。誰が設置を言い出したか知らないが、着眼はよいと言えるかもしれない。

 前の晩に雨が降って涼しくなった朝、その自販機の前を通りかかった。 すでに物珍しさは失せているし、飲み物を買うつもりもない。
 しかしなぜか、足が止まった。

「うぅん、うぅぅん」

 なにやら思案気な、細い声がする。
 何だろうと思って辺りを見回すと、どうやら声は、自販機のあたりからする。
 近付いていくと、すぐにその出どころが知れた。

 親指の先ほどのアマガエルが、自販機の中にいる。

 商品見本が並んだ、透明なカバーの、中だ。いったい、どこから入ったのか。しかも、背中から尻にかけてが商品見本のコーヒー缶の後ろにはまり込んで、抜け出そうともがいているようだ。

 じり、じりと、身をよじり、ぺたり、ぺたりと、前足の吸盤でよりどころを探る。

 なんだか目が離せなくなって、しばらく見ていると、ぽんと尻が抜けて、そのままずるんと缶の底のところまで落ちた。
 少しほっとしたような気分になって、散歩を続けることにした。

 歩きながら、あのアマガエルはいったい、どこからあの中へ入り込んだのだろうと考えた。
 田んぼや畑ばかりのところに、夜中でも煌々と光る自販機が、ぽつんとある。虫は寄り放題、それをカエルは食い放題、なんと素晴らしい食堂かと、そこまではよくわかる。しかし、あの機械の中の方まで入って行こうというのは、どういう思考か。
 いや、何も考えなどは無いのか。ただ、食欲の衝動か。

 それから数日して、また早朝の散歩に出た。
 夜中ずっと蒸し暑く、夜明け前にようやく涼しい風が、少し吹いた朝だった。

 自販機の前を通るとき、どうしても目は、緑色の小さなものを探してしまう。果たして。

 いた。

 今朝は3匹。しかも、商品見本が三段並んでいるうちの、上の段、左から3本目のスポーツドリンクのペットボトルの横には、親指の爪くらいのカエルが、なかば干からびて張り付いている。
 哀れなものだ。
 その下の段、さらにまた下の段のカエルは、もぞもぞと動いている。帰り道を探しているように見えるのは、こちらの思い込みだろう。どうにかしてやりたくても、どうやって入ったのかがわからなければ、助け舟の出し様もない。

 案外、彼らは自由に、気楽に出入りをしているのかもしれない。
 挟まったり、干からびたりしたものは、ただよほど運が悪かっただけかもしれない。
 そう思うことにした。

 さらに数日後、今度は昼過ぎに、用事があって自販機の前を通った。

 缶やペットボトルの入った段ボール箱を、たくさん積んだトラックが停まっていて、自販機の扉が開いていた。商品の補充かと思ったら、手前の商品見本の前を開けている。
 近付いて、ひょいとのぞき込むと、手を動かしていた二十代と思われる若者が、肩越しにこちらを見て、人懐こい口調でこう言った。

「すごいでしょ、カエル。すぐ入ってきちゃうんですよ」

 彼の、軍手をした左手の中には、10匹くらいのカエルがいた。
 動いているものもいれば、自らの食欲の犠牲になったものもいる。
 右手では、すっかり弱って、ゆっくりとまばたきだけをするものを、つまみ上げていた。

「入ったらもう、出られないみたいなんです。かわいそうに。わざわざ入らなくたって、虫だったら周りにいくらでも寄ってきて、食べられるだろうに、ねぇ」

 彼は眉を寄せ、意外なくらい悲しげな、カエルを憐れむ表情を見せた。

 翌日、また早朝に自販機の前を通り、足が止まった。
 自販機の、扉の下のはしに、数枚の白いガムテープが貼ってある。

 そのガムテープには黒いマジックで「カエル立入禁止」と書いてあり、さらに緑色のマジックでカエルの絵、そしてそのカエルの上に赤のマジックで、大きなバツが描いてあった。

 あの、若者がしたことだろう。
 もちろん、悪戯などではない。それどころかこれは、心のこもった、優しい、護符だ。カエルを守りたいと思う、心からなる、お守りなのだ。

 これは、一肌脱がねばなるまい。

 見回すと丁度、自販機のすぐ近くに、話のわかりそうな、少し太めのアマガエルがいた。
 簡単に事情を話し、このあたりのカエル達に、この明るい機械の中に入っての食事はやめるように、触れを出してもらえるかと訊くと、太めのカエルは上機嫌でグググとのどを鳴らした。

「ようござんす。わしが責任を持って、触れ回りましょう」

 すぐに尻を向け、ぴょんぴょんと跳び去った背中を見送って、思わずふふっと笑いが漏れた。

 あまり期待はしないことだ。それでも、あの若者と、ここのカエル達に、良い縁が恵まれたことは確かなのだ。

 あとは念のため、自販機の中へは虫もカエルも、入りたくなくなるように、まじないをかけておいた。


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