しきから聞いた話 110 こま獅子
「こま獅子」
陽射しをさえぎるものが何もない炎天下の農道を10分ほど歩いてきて、ようやくこんもりと木の繁る杜にたどり着いた。
目的地はもう少し先だが、日陰に入りひと息ついて、汗をぬぐった。涼しく優しい風が、頬から首筋にかけて心地良い。
大人の背丈ほどの木の鳥居があり、ようやく「古摩神社」の文字が読み取れる古びた扁額がかかっている。そういえば、この辺は少し前まで古摩村といっていたか。いずれにせよ、これは村社として大切にされてきたのだろう。古くとも清浄に保たれて、掃除もきちんとされているようだ。
やしろに軽く頭を下げて、少し休ませていただけるよう挨拶をする。道の方へ向き直ったとき、小さな落とし物が目についた。数歩近付いて拾い上げて見ると、はぎれ布でたいそう上手に作られた、
「狛犬っ。それ、私のっ」
ぴんと張った弓弦の声。一瞬、巫女装束の少女かに見えたが、それは違った。半袖、ひざ丈のパンツから、日焼けした華奢な手足がするりと伸びた、小学五、六年生くらいの少女だ。
「ごめんなさい。今朝、ここで落としたんだと思います。あの、」
返してくれ、などといきなり言うのは不躾か、その遠慮が顔に表れている。賢い少女だ。
笑いながら差し出して渡すと、少女はほっと息をついて受け取り、胸の前で両手で包むようにして、そっと頬を寄せた。
ずいぶんと大事な、お守りのようだね、と言うと、少女は小さくうなずいて答えた。
「お姉ちゃんが、寮に入る前に作ってくれたの。その、古摩さんの、狛犬さん」
少女の視線をたどって見ると、やしろの手前に、石造りの小さな狛犬がいた。
少女が近付いて来て、今さっき渡した、はぎれの狛犬を突き出した。
「その、右の狛犬さんが、これ。口を開けているのは、阿吽のあ、なんだよ」
得意げにあごを突き出す。どうやら、誰かに教わった知恵らしい。かわいいものだ。
せっかく見せてくれているのだから、さらに近付いて、少しかがんで見る。掌にすっぽり収まってしまうくらいの小さなものだが、とてもよくできている。全体の形もよく取れているし、白のフェルトと黒いビーズで、くりっとした目も上手にできている。
そのビーズの黒目と目が合った、と思ったとき、
「みいは狛犬、狛犬と呼ぶが、あんたにはわかるだろ、われは獅子」
声は、はぎれの狛犬、いや獅子か。それとも、やしろのものか。どちらでもよいし、どちらからでも同じことだろうと感じた。
「この娘と、姉とが、巫女の家の子じゃ。特に姉は聡い子で、やしろを大事にしてくれている。今は看護師になるための学校で、こちらにはおらんがな」
少女が、寮に入る前と言ったのは、そういうことか。
姉さんがいなくて寂しいな、と少女に言うと、ぱっと目を開いて、ぶんぶんと首を振った。
「ううん、あのね、お姉ちゃん帰ってくるの。今日、きっともうすぐ、帰ってくるの。それでね、今朝、古摩さんにお姉ちゃん帰って来ますって言いに来て、それでこれ、落としちゃったの」
少女は、きらきらと目を輝かせた。
やしろからも、はぎれの狛犬からも、嬉しさが伝わってくる。
丁度、そのとき。
「みい、こっちにいるの? みい」
「あ、お姉ちゃん」
さらさらと黒髪をなびかせて、すらりと背の高い娘が姿を現した。
こちらを見て、会釈をよこす。
「あのね、みいが狛犬さん落としたの。でね、拾ってくれたの」
駆け寄って来る妹の手の中を見て、姉は事情を理解したようだ。
「ありがとうございます」
こちらも軽く頭を下げ、本来の目的地へと向かうことにした。
姉妹は手をつないで、やしろを離れてゆく。
最後に耳に届いたのは、姉の声だ。
「だから、みい、それは狛犬じゃなくて獅子だって、何度言ったらわかるの」
涼しげな風に乗って、やしろからくすくすと笑う声が聞こえていた。