しきから聞いた話 176 北を待つ鴨
「北を待つ鴨」
収穫を終えた田んぼの横の水路に、一羽の鳥がいた。
光沢のある緑色の頭、黄色いくちばし。
マガモのオスだ。
そういえば昨年も、今頃にやって来た。昨年は確か、もっと紅葉が早かったのではなかったか。思えば一昨年も、ここでこのマガモを見た覚えがある。
毎日ではないが、よく通る道だ。この水路は幅が広く、ちょっとした小川のようで、景色が良い。カモという鳥は、なぜか水辺の風景によく溶け込んで、そこにいるのが当たり前のようで、しかし季節のうつろいを教えてくれるように思う。
けれど。
昨年も一昨年も、いつも、つがいでいたのではなかったか。
足を止めて見ていると、あちらも気になるらしい。ちらちらとこちらを気にかける様子だ。
いい陽気だね、と声をかけると
「今年はなんだか、陽射しが強いな」
と答えた。やはり、昨年も来ていたカモか。
ここへ来るのは何年目かね、場所が気に入っているのかい、とさらに問うと
「さあ。三度目か、四度目か、忘れたな」
そう言って、奥の草むらの方へ、水面をすべるようにして行ってしまった。
後ろ姿を見ると、このオスは頭の緑色が特に、鮮やかで艶めいているように見える。たしか、マガモのオスの頭が緑色になるのは、繁殖期だけではなかったか。近くで営巣しているのかもしれない。彼らにとっては、忙しくも楽しい時節を迎えたということか。
二日ほど後、また水路の横を通りかかると、視界の端を、きれいな緑色がすうっと動いていった。
向こう岸の草をついばみ始める。
オスはまた、一羽きりでそこにいた。
しばらく見ていると食事を終えたが、こちらに来る気配はない。しつこくして嫌われたくもないので、その場を離れることにした。
翌日も、水路にはオスが一羽だけでいた。
なるべく気軽に聞こえるように、お連れはお出掛けかね、と話しかけると、オスはちらりとこちらを見てから、こう言った。
「どこで寄り道をしているのか、遅いね」
その二日後、三日後、五日後にも水路の横を通った。
昨年も一昨年も、常に二羽でいたのに、緑色のきれいな頭がひとつきりで、褐色の、ひと回り小さなマガモの姿を見ることはなかった。
十日ほど経った夕刻に通りかかると、オスは水路の脇の、岸辺のようになったところに立って、北の空をじっと見上げていた。