〝PaleBlue”な『BLUE VALENTINE』
米津玄師さんが〝Pale Blue”についてのインタビューで言及していたデレク・シアンフランス監督の『BLUE VALENTINE』。
「ライアン・ゴズリング主演の「ブルーバレンタイン」という映画があるんですが、その映画は子供がいる夫婦がこれから離婚するしかないという最悪の状態から始まるんです。そこから場面が変わって出会う前の2人が映し出される。その後も最悪の状態と出会う前の状態が交互に提示されて、最終的に2人が結ばれる瞬間と別れて離れていく瞬間が同時に映ってエンディングになる。ああいうことを音楽でやれないかと思ったんです。」(2021年6月12日音楽ナタリー)
〝Pale Blue”のMVでは、冒頭、カメラが近づくと米津さんが花束で顔を隠す場面が印象的だけれど、『BLUE VALENTINE』でも、シンディとディーンが恋人同士だった時に、ディーンがシンディの家に持ってきた花束ーそれは、〝Pale Blue”のMVの花束の様に質素だけど美しいーで、顔を隠してふざけ合うシーンがある。
楽曲ばかりでなく、MVでもこの映画の要素を取り入れているのだ。
ディーンとシンディ。この夫婦の間には決定的なことは映画の中では描かれない。もう取り返しのつかない夫婦関係と二人が出会う前からと結ばれるまでを交互に映し出すこの映画は、観る人の年齢、性別、その時代によって全く受け取り方がかわってしまうだろう。
米津さんは〝サンタマリア”リリース当時、自分のお勧めのDVDを紹介するコーナーで
どうしても、夫の目線に立って見ちゃうんですよね。「ROCKIN’ON JAPAN 2013年7月号」
そう、語っている。
シンディが看護師として責任感を持って働いてるのに対し、ディーンは朝からお酒を飲んで、仕事も真剣にやっているように見受けられない。
そんな、ディーンに対し、シンディは
「ただ、惜しいと思ったの。才能があるのに。」
「何の?」
「歌とか、絵とか、それにダンス」(『BLUE VALENTINE』)
と、言われているのを見ていると、米津さん、今の成功した米津さんではなく、何かの歯車が狂って「成功しなかった米津さん」はこんなふうだったのではないかと思った。
酷く丈のずれたオートクチュール
「愛って、どんな気持ち」
「私はー まだ見つけていない。」
「おじいちゃんは」
「最初は愛だったかも。でも私を人として見てくれなかった。気を付けなさい。よく選ぶのよ。恋に落ちる相手がーあなたにふさわしいか。」(『BLUE VALENTINE』)
シンディが家族の中で唯一好きな祖母とシンディの会話だ。
ディーンはシンディにはふさわしくない。
「それは 酷く丈のずれたオートクチュール」(〝Pale Blue”)のように。
シンディは医師を目指す勉強好きな学生で、片やディーンは高校を辞めて、アルバイトで生活している。
そして、家庭も。
ディーンの両親は離婚していて、父親とはもう、何年も会っていない。
シンディの家庭は、美しく整えられ豊かに暮らしている。けれど、それは表面だけなのだけれど。
「父の娘」シンディ
「父の娘」という言葉をご存じだろうか?
「父の娘」とはユング派の女性分析家によって 1980 年代に提出された概念である。 この言葉は「父 権制の娘」、即ち、個人的な親子関係を越えて「父なるもの」の強い影響下にある女性を意味する。
シンディの家庭は、母は専業主婦のように見受けられる。
映画では、祖母との会話の後に、高圧的で母をまさに「人として見てない」父の描写が続く。
けれど、そんなシンディが子どもを預けるのは、父親なのだ。普通ならば、家事・育児に長けた母親に頼むのだろうに。
「父の娘」シンディは父親みたいな、男性は選ばなかった。
けれど、自分は父親みたいになってしまった。
そして、ラスト「父」の家に帰った、シンディの元をディーンは去って行く。
シンディは父親を憎みながらも、結局は父親の元へ行く。ディーンは父親が好きだけれども、頼ることはしない。
ディーンの父親には、多分頼られるだけの力はないのだろう。
「父の娘」の娘、フランキーも、父親を愛しながら関わることはなく、母親を憎みながらも生涯関わって生きていくのかもしれない。
「父の娘」の娘 フランキー
「父の娘」の娘、フランキー。
私はフランキーと聞くと、フランキー堺とリリー・フランキーを思い出すので、男性の名前の様に思えた。アメリカではフランキーという名前は男女半々の割合だという。日本で言うと「つばさ」や「まこと」というイメージだろうか。あえて、男性にも使える名前を付けたのは母親の様に、女性特有の理由ー望まない妊娠ーで夢を諦めずに男性の様に生きてほしいという願いが込められている気がする。
実は、私は映画の中でフランキーが一番気になった。
というのも、私自身が「父の娘」の娘であるからだ。
私の母は典型的な「父の娘」で、私の祖父にあたる母の父からの影響を色濃く受けている人だった。祖父は早逝しているため思い出の中で美化され、神格化されていったせいもある。母は、仕事に真剣に取り組んだ人だったが、その分専業主婦だった祖母やそんなにやみくもには仕事に邁進しない父を侮るようなところがあった。
そんな家庭で育った私は「女性でも仕事で男性と同様に認められなければダメだ」という気持ちがあった。
シンディは、望まない妊娠をする。はっきりと描かれてはいないが、そのために医師になる夢を阻まれ、看護師になったのだろう。妊娠するのは当たり前だが女性だけだ。
私も、男性並みに仕事をした挙句、女性特有の器官が病に冒され、休職を余儀なくされた。
まるで、女性である自分の体に復讐されるように。
女性という性を持つ限り、男性と同様な生き方は出来ない。
では、どうしたらいいのか。自分はまだ、答えを見つけられない。
ただ、映画が終わったあとの描かれない物語の中で、フランキーが「父の娘」としてではなく、女性としてだけでもなく、フランキーという人間としての幸せを掴んでくれることを願ってやまない。
水もやらず枯れたエーデルワイス
シンディとディーン、二人が別れずにすむ方法はあったのだろうか?水を与えれば、エーデルワイスは枯れずにすんだのだろうか?
たとえ、水を与えたとしても花はいつしか枯れていく。ただ、それを捨ててしまうのか、スワッグのように枯れても美しくし残しておくことができるのかは、二人しだいだろう。
シンディとディーンは、お互い違うから惹かれあったように思える。
けれど、お互いの本質は違う。その本質をお互い頑固に変えなかった。変わらない自分を顧みずにシンディは変わらないディーンを許すことはしなかった。
自分自身を変えていかなければ、時間とともに愛情は違う名前の感情に変質していくのだろう。
「黒ずみだす 耳飾り」(〝Pale Blue”)のように。
恋愛は、映画のエンドロールにシンディとディーンの二人だけの結婚式の画像とともに映し出される花火、「花火」のように一瞬で消えゆく、けれど美しいものだ。
その「花火」の部分を切り取ってみせたのが、米津玄師の〝Pale Blue”なのだろう。
シンディとディーン、二人の互いへの気持ちも、二人の関係性も変わってしまった。
けれど、二人の心が通い合った美しい瞬間が、嘘になるわけではない。
二人の心がそのままでいられなくても、その一瞬の煌めきは真実なのだ。
永遠に。
だから、〝〝Pale Blue””は
「ずっと ずっと ずっと」と歌うのだろう。
この映画のエンドロール、私の心の中にはずっと〝Pale Blue”が流れていた。