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なぜ広島市街地にJR路線が走っていないのか

僕の地元広島市は市街地を縫うように路面電車が走っており、市民の足となっている。

その一方で中長距離かつ大容量輸送を担うJR線は市街地の外を走っており、中心駅である広島駅ですら街から少し外れた場所にある印象である。

実際に市内の駅を見てみると

旧市内

中区:新白島駅(山陽線、2015年新設駅)
東区:矢賀駅、戸坂駅(芸備線)
南区:広島駅、天神川駅(山陽線)
西区:横川駅-西広島駅-新井口駅(山陽線)、三滝駅(可部線)

新市内

安佐南区:安芸長束駅〜上八木駅(可部線)
安佐北区:中島駅〜あき亀山駅(可部線)、井原市駅〜安芸矢口駅(芸備線)
安芸区:瀬野駅〜安芸中野駅(山陽線)、矢野駅(呉線)
佐伯区:五日市駅(山陽線)

といった具合で旧市内の駅はそもそも少なく、かつ紙屋町や本通りといった市街地を避けるように路線が敷かれている。そして2015年に新白島駅が開業するまで、中区には一駅も無かったのだ。

各路線は下の画像で言うと
青色⇛山陽新幹線
赤色⇛山陽線
黄色⇛呉線
緑色⇛芸備線
水色⇛可部線
オレンジ丸⇛市街地
である。

JR路線


どこの都市も結構あるあるだが、そもそも市街地には路線を引きにくい。日本の鉄道の歴史は150年ほどで、主要な幹線は1900年頃には完成しているが、既に市街地が形成されていればそれを避けるルートを通らざるを得ない。

広島駅が開業した当時、既にあった市街地や広島城の堀を避けるように路線が引かれた。そのため広島駅が建てられたのは当時の広島市の北端であったのだ。

現在では市町村合併が進み広島市面積が広くなったため、広島駅が市の北端というイメージはないが、当時はそういう立地だったようだ。

1930年頃の広島市



こういった主要JR駅と市街地が離れているケースは日本全国に見られ、大都市であればそのすき間を埋めるように地下鉄が、中都市や地方都市であれば路面電車が市街地を通るような街の構造となっていることが多い。広島の場合は後者である。


都市計画的側面でいえばこういった鉄道線形は「都市あるある」であるが、土木工学的な側面でみるとどうだろうか。

鉄道線路・土木の設計をかじっている自分視点で見てみると、山陽線の線形は「ココしか無い」という唯一のルートにも見える。

1960年代後半〜70年代前半に建設された山陽新幹線(青色)は山間部もお構い無しでトンネルをブチ抜いているが、1890年頃に建設された山陽線(赤色)は山間部を見事に避け、かつ広島市内では横断する河川の数や川幅が小さい上流部を狙って配線設計がされている。

配線に苦労したと思われる


広島の市街地=太田川デルタであることを考えると、市街地への配線は困難であったことが想定される。

山陽線ができた1890年頃の基礎構造は松杭が一般的で、今のようにゴリゴリ地盤改良することも難しかったはずなので、できるだけ軟弱地盤を通るルートは避けたかったはずである。
また、この時代(1890年頃)の鉄道橋は無道床の鉄桁(デックガーダーorトラス)なので、橋脚や橋台といった下部構造が沈下や傾斜してしまうと軌道の修繕が非常に困難である(有道床と異なり、道床突固めによるレベルの調節ができない)。

広島に地下鉄ができないのも、デルタによる軟弱地盤が原因の1つである。

そういった観点で考えれば、広島市内のJRの配線は妥当of妥当で、昔の技術者の技量の素晴らしさがよく分かる。

自分はJR西社員ではなく鉄道他社の社員なので詳細は知らないのだが、ぱっと見てそう言う事情があったんだろうなと言うのはなんとなく想像できる。

一言言えるのは、昔の鉄道技術者は本当に凄い!!

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