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自分の中で徳を積め

最近は、耳触りの良いことばかりで、ことの本質がなおざりになっているんじゃないだろうか。そんなことを考えてむしゃくしゃしていた。空は青いのに、心は長谷川等伯の松林図屏風のように靄がかっている。
世の中には美しいものがたくさんあって、目を皿にして見ていないと見逃してしまう。言葉にして、自分に刻まないと流れてしまう。適度に手を入れてやらないと、枯れてしまう。世の中の美しさというものは、そういう儚さで成り立っているのだと思う。儚いものは、美しい。それゆえに、容易く壊れる。だからと言って、その壊れゆく過程を見過ごしたままでよいのか。個人的感覚で言うと、それはよいとは言えない。手に入れたいわけではないが、失いたくないもの。そういった程よい距離を保って、時に気をかけて、「大丈夫そうだなぁ。」という安心感を得るだけの無責任な人間なのかもしれない。
あまりにも抽象的な書き出し方なので、一体自分は、何にむしゃくしゃしてるのかな?と、反芻してみたところ、恐らく「戦争」に対してむしゃくしゃしているんじゃなかろうか。「戦争」そのものに目くじらを立てているというよりも(戦争自体受け入れ難いのだが)、なんというか、そういった情報の受信を徹底的に排除しようとする自分の無責任感・傍観者としての完璧な立ち振る舞いにむしゃくしゃしているんだと思う。死者が何名といった数字を知ったところで、戦争の無残さだけが際立って残り、なんとなく心を痛めて眠りにつく。クーラーの効いた床の上で。考えようと思えばいくらでも考えていることができるんだけど、そうすると仕事のことを考える時間がなくなって翌日に影響が出るのでやめる。仕事っていうのは、実に都合のよい脳みそクリーナーだな、こんちくしょう。という気分になる。
無責任な自分でいることが恥ずかしく思うけれど、無責任でいないと疲れる。手を差し出したくなるけど、引きづり込まれたら泣けてくる。やるなら完璧にやらないと困る質だから、結局自分でなんとかするわけだけど、「戦争」っていうものは自分の力ではどうにもできない。「戦争」という情報だけを、なんとなく触って、ひやっとして、「うわぁ、なんだか怖いや。」と、いそいそと自分の住処に帰るだけの自分にむしゃくしゃして、耳触りの良い言葉を並べてるのは己と気づいているが気付かぬふりしてやり過ごしている。そんな自分に言いたい。何もできないなら、自分の中で徳を積め、と。距離を置くなら、せめて思いやれよ、と。
なんだか夏の暑さは自分を、苛立たせてくれるので助かる。安寧した暮らしに慣れていると、こう沸々と湧いて出てくる感情がなくなって、淡々とした生活に慣れてしまうからだ。やっぱり自分は縄文人向きなのかもな。
終わり。

※アイキャッチイメージに誤植を見つけました。後で直します。やっぱり私は詰めが甘いなぁ、へへへ。

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