君思う、故に我あり
9/24。INNOSENT in FORMAL ギター CANDY MANです。
最近は台風が何回もやってきてる。皆様が被害を受けていないかどうか心配。何事もなければ良いけど。
台風で雨風が強いと外には出られず、また気温も一気に下がってきてより億劫になる。
なので家で篭って作業をしていると、ふとこんなことを考えることがあった。
「俺って存在しているのかな」と。
あーあ、とうとうパーになっちゃったか。そのうち5Gと接続されるぞ、と。いや哲学的な話としてね。
ということで今日のテーマは「君思う、故に我あり」です。
もう誰もが知っている、「人生の名言リスト30」みたいなものにも載るようになった哲学者であり数学者でもあるデカルトの「我思うゆえに、我あり」が俺のしょうもない疑問を既に解決している。
今目の前にあるものは本当に存在するのか懐疑的だけど、「存在するのか?」と考えている自分の意識は確かに存在しているよということ。
はい、今日はここまで。
とは言わずに。哲学者はこういう存在というものを考える。
バートランド・ラッセルは「世界5分前仮説」を立てた。世界にある建物や風景、人間関係、はたまた記憶などは神によって5分前に作られたのではないか、という説。この説は反論できない。逆を言えば神によって作られた、という説も立証はできない。
俺も、もしかしたら5分前に神が作ったものなのか?俺がポルノグラフィティが好きでギターを手に取った、という記憶も神が5分前に生み出したのか。
ラッセルは本当にそう思っているのではなく、過去と現在の記憶のあり方について考えるときに、この説を例え話として持ってきただけとのこと。この仮説が反証できないのであれば、過去と現在は結びつかず、独立したものだと。
例えば、体のだるさがあり薬を飲んで寝て、朝起きたら体が軽くなっていたとする。
普通なら「薬のおかげか」と思うけど、もしかしたら「寝る体勢がよかった」とか、「風呂にゆっくり浸かった」おかげかもしれない。本当に「薬のおかげ」かどうかは立証できないのだ。今起きている事実の原因をいくら調べても、過去の原因は完全に特定はできない、という極論。
おっと、哲学の授業をしたいわけではなかった。
自分が存在しているということは自分でしか証明できないし、過去も未来もなく今しかないのだ、という当たり前の事実に戻ってくる。
でも5分前に作られたという仮説がもし正しくて、自分という存在は自分でしか認識できないとしても、他人に自分の存在を認めてもらいたいという承認欲求がある。自分自身の存在は他者の認識があって初めて成り立つという考え方もできる。社会というものがそれにあたる(じゃあ亡くなった人も目の前にはいないけど、その存在を認識していればいるのかもね)。
そのためにはクリエイトしていかないと。いくらアイディアが頭の中にあっても作らないとそのアイディアは存在するとは言えないのだ。
なんてしょうもないことを考えてたら晴れてた。ちょっと外でも出ますか。
以上。
今日の一曲 Led Zeppelin -「 Stairway To Heaven」
ここ最近、急に聞き出した。言わずもがなイントロは最高に泣けるんだけど、ソロも相当カッコいい。こういうソロが好きなのかもしれんね。