楽園の花
目蓋の裏に太陽が張り付いている。罪人の印。遥かな記憶、遠い昔からやって来た、懐かしい風景。私はかつて水辺のオアシスにいた、けれど今の私には許されない、喉を潤すことは。真夏の太陽が私を睨んでいる、私は彼を睨み返す。止めて欲しいのに。見ないで欲しいのに。私の喉は渇れ続ける。渇れ続けて、きっといつか死んでしまう。そうなる前に、水を飲まないと。そう思うのに、私には届かない。私に安息は許されない。だって私は、彼を――。
――許サナイ。
彼は言うだろう、私を指差して言うだろう、法を盾にして犯罪者を糾弾する検察官は、私を断罪するだろう。私の血は彼の前に流されて、足下の土へと還っていく。その時私は霞んでいく視界の向こうに、彼の射抜くような眼を見るだろう。彼の口許は堅く引き結ばれて、開くことはない。私はただ見つめ続ける、真夏の太陽を。恐れるように、焦がれるように、私は抗うことも出来ずに息絶えるだろう。
†
夢を見ていた。それは厭な夢だった。肌に張り付いたシャツは濡れて、汗の匂いがした。
身体を起こせば、明瞭になった視界に覚醒していく意識。窓から運ばれてくる潮の香り。渦を巻く波の音、押し寄せては砕けていく。泡はすぐに消えてしまう、意識の隅に追いやられた記憶のように。
窓辺に花は揺れている、赤い花だ。緑の葉。エキゾチックな原色は白い壁に映えて鮮やかに浮かび上がる。それは水辺の記憶を甦らせ、そこに住んでいるだろう女の身体を彷彿とさせた。黄金の光に照り輝く、瑞々しい肌。その女にはきっと赤が似合う。艶やかな赤い色が。
不意に頭の中で、記憶がショートした。僕は突然激しい衝動に駆られ、花を毟って窓の外に投げ棄てた。花瓶が窓辺を転がって、不可思議な影を落とした。ガラスに透けた紋様は、グラスに浮かぶ氷のように冷たく煌めいた。
†
ノイズノイズノイズ、街はノイズに満たされている。私はその向こうに音を聞く。それは誰にも聞こえない音、私だけに聞こえる音。
ふと耳に入ったニュース、誰かを殺して逃走した犯人。アナウンサーは淡々と事件の惨状を述べ伝える。コメンテーターは絶えず何かを喚き散らしている。目まぐるしく移ろう日々、足を止める間もない。私は人混みに酔い、ふらふらと近くの喫茶店へ入り込んだ。
店内は涼しかった。暑かったのだ、と気付いた時、強かった日射しを思い出した。何故私は気が付かなかったのだろう、歩いていた時に忘れていたのだろう。私は彼に追われている、彼は私を追い続けている。それはずっと繰り返されてきたことだ。なのに何故忘れていたのだろう、私は時々色んなことが思い出せない。
使われなくなった記憶はやがて失われていくものだと人は言う。ならば、失われていく記憶は使われないものだろうか。私の記憶は途切れていく、私の感情は摩耗していく。否、色彩となって目の前のキャンパスに描き付けられる。
カウンターでアイスティーを頼んだ。揺れる透明な色彩、伝い落ちる水滴、手に取れば高く澄んだ音が鳴る。それは天上の音楽のように、祝福された鐘の音のように、心を満たしていった。ひんやりした液体、その全てを飲み干すと、店の外に飛び出した。お金なんか持っているはずもない、私には帰る場所もないんだから。
すぐに声は追い掛けてきた。振り切って、人混みの中に隠れた。
木を隠すなら森の中。私はここにいない。どこにもいない。
†
夕暮れの街は僕の心を歪ませる。どうしようもないほどに掻き立て、焼け爛れさせる。空に流れていく赤い血はあの女のものか、僕自身のものか。
導かれるままに歩いていくと、教会へと辿り着いた。ガラス越しに見える大聖堂の前を通り過ぎて階段を上れば、木造りのドアがある。押し開けて中に入ると、奥の方に2つ小さな光が灯っているのが見えた。祭壇に置かれた蝋燭、その向こうには誰かがいる。白く長い衣を身に纏ったその人は、磔刑像の前に跪き、祈りを捧げていた。やがて立ち上がると、振り返って、口を開いた。
よく来たね。それは遠くから旅をしてきた知人を迎えるような、久し振りに会う友人を労るような、そんな口調だった。おいで。彼は手招いた。僕は赤い絨毯を歩いて行き、彼の前に立った。彼は右手を翳し、僕の頭上で十字を切った。あなたの上に祝福が豊かにありますように、アーメン。顔を上げると、彼は不思議な色の光を湛えていた。彼は僕の額に手を触れ、指を滑らせながら言った。君には赤い十字架がある――気をつけなさい。
僕は驚いて額を押さえながら後退った。彼は変わらず僕をじっと見つめていた。羞恥、後悔、罪悪感。様々なものが去来しては次々に胸を刺していったが、僕は努めて冷静さを装いながら、礼をして、その場を立ち去った。
彼は何も言わず追い掛けても来なかったが、大きな目がずっと僕の背中に張り付いているような、そんな気がした。
†
あの女を殺す。殺して、八つ裂きにする。それが僕の望み、僕の願い。繰り返されることが呪いなら、それは祈りでもあるだろう。この世界は祈りに満ちている。例えそれが悪行だとしても、全ての事象は記録される。地獄の番人が持つ書物には、世界に起こる様々な出来事が記されている。ならば、これは、初めから運命付けられていたことなのだ。僕は運命の女を殺しに行くのだ。この輪廻を断ち切るために。
廻り廻る螺旋の中で、僕は一人苛まれ続けている、吊るし人となって。世界樹は僕を支える一方、苦痛を与えながらその枝葉を伸ばし続けている。その幹は深い淵へと根を張って。繋がれる過去と未来、紡がれていく歴史、その一端に僕は携わっている。だから罪などないのだと、僕の行いは必然なのだと、僕は僕自身に言い聞かせる。
僕の目は、耳は、口は、他のことに対して閉ざされている。しかしそれでも、今の僕には、為すべきことを為す以外に道は無いのだ。
見上げると、一羽の鳥が空高く旋回していた。雲間から射す光、空は赤と青とに塗り分けられて、夢のよう。沈んでいく太陽は僕の胸を貫いて、焼け爛れさせる。僕はどこまで行かなければならないのだろう。
†
私がいるのは街の中。絶え間なく流れる人混みの中。私は“ここ”に点在し、“そこ”に潜在する。どこにでもいる私はどこにもいない。触れてみれば気付くはず、記憶は沸騰してその花を開かせるはず。だから私は呼んでいる、呼びながら逃げ続けている。それは津波が来るのを恐れるように、空が落ちてくるのに慄くように。私は終わりの時を待っている。あの鐘が鳴り終わるのを待っている。私は隠れている、音の輪の中に。耳を澄ませば聞こえてくるたくさんの音の中に。私はどこにでもいる。そして、どこにもいない。
†
夜は静けさを伴いながらやってくる、彼女は静けさの中に浮かんでいる。けれど僕には届かない、水辺に彼女はいる。
先にそこにいたのは僕のはずだ。なのに何故僕は追放されているのだろう、楽園から。僕は荒野を彷徨い歩いている、彼女を求めながら歩き続けている、思慕にも似た強い感情に突き動かされて。
何故届かない? 何故終わらない? 僕は幾度も繰り返し続ける、幾度も夢を見続ける。それは彼女の夢だ、水辺にいる彼女の夢だ、素足は泉に浸されている。彼女は白銀の光を浴びて歌い、踊っている。この世界に彼女はただ一人だけ。僕の中に彼女はただ一人だけ。僕は彼女を求めて彷徨い続けている。
遠い日の、懐かしい旋律が聞こえて来る。それはまほろば。僕の故郷。約束された楽園の地。今の僕には限りなく遠く、そして近い場所。
目を開けば一面に広がる砂漠、果てのない世界。限りなく広い世界。僕はこの世界にたった一人だ。けれど寂しいとは思わない、僕には彼女がいる。彼女が僕のことを見ていてくれる。ずっと、ずっと。
†
彼は来る、来ない、来る、来ない――。
私はずっと待ち続けている、彼が来るのを待ち続けている。終わりが来る日、その時を待ち続けている。たくさんの人が殺された、私の為に死んでいった。けれど誰も辿り着けたことがない、私がいる場所には。
幾多の屍を踏み越えて、幾多の血を流して、彼はやってくるだろう。私の元へやってくるだろう、傷だらけになって。だから私は彼を抱き締めてあげるのだ、疲れた身体を休ませてあげるのだ。
旅人よ、水を求める旅人よ、私はお前が愛おしい。だからどうか死なぬよう、せめて道を失わぬよう、その足下を照らしていよう。そして、辿り着けた暁には――いや、これはよそう。
今はまだ、その時ではない。お前は私の元へ辿り着けない。だから私は今日も待ち続けるのだ、ずっとずっと、お前を待ち続けているのだ。
†
耳を澄ます。それは遠い歌声、夢の向こうからやってくる。彼女はこの夜の向こう側にいる。夜明けと共に時は動き出す。
溶けて消える夜の雫、やがて迎える朝。僕はベッドの上で目を醒ました。白いカーテンが揺れる窓辺。花は無い。花瓶だけが転がって、淡い影を落としている。優しい朝。それは彼女の匂いがする、僕は彼女の腕に抱かれている。
それを自覚した時、頭に強い痛みが走った。駆け抜ける記憶、それは嘗て生きた空。散らばった鳥の羽根、流された血。
気付けば僕はガラスの破片を握っている。その先端から彼女の血が滴り、大地を呪っている。僕は破片を取り落とし――泣いた。僕は彼女を失ってしまったのだ。もう、生きる理由もない。
彼女の身体は熱に干乾びている。僕はそれを抱え上げ、水に沈めた。彼女はゆっくりと落ちて行き、やがて底に辿り着いた。
見届けた後、僕は空を仰いだ。彼は次に僕を殺そうとしている。罪は連鎖し、受け継がれて僕の所へやってきた。けれど僕にはもう、抗う気力もない。
最後の力を振り絞り、僕は自分の喉に破片を突き立てた。
溢れ出す血、それは泉のように。僕は彼女と共に朽ちていく。旅は終わる、ここで終わる。ようやく辿り着いた場所。全てはここから始まり、ここへ還る。繰り返される終着点、それは幾度も見た景色。咲き乱れる花、混じり合う血。
僕は再び生まれて来るだろう――。