自他へのリスペクトと健全な自己肯定感について

知識だけでもなく経験だけでもなく、知識と経験を両輪とすることが、成長していく上で必要だと感じています。ここでいう知識は、他者の視点からの情報のことだと定義します。すると知識と経験の違いは、他者と自分の違いで、五感が伴うかどうかということになります。

知識には歴史の重みを、経験には五感の重みを感じることができます。知識は元々誰かの経験で、積み重なって歴史の重さを得た分、経験の重さを忘れてしまいがちです。経験としての重さを補う必要があるのですね。

他者と他者から得られる知識へのリスペクトは、根底には経験があるということ、自分と同じように五感を伴い歴史となっているのだと意識することから生まれるのかもしれません。

リスペクトがあってはじめて、理解しようと思えるのかもしれません。論破するというのは、ある意味、相手の五感・経験・歴史・尊厳を潰してしまうということ。そういう意味で、論破と理解は真逆のように思います。

自分の方が正しく強いと証明すること。そうしたい・しなければならないという感情があるとしたら、そこには弱さが隠れているのではないでしょうか。優越感の裏の劣等感。他者より優れていることは自信の源にもなりますが、健全な自己肯定感は他者肯定感と両立し、リスペクトと理解しようとする態度を生むと感じています。

優越感を自信とする場合、そこには競争社会における他者評価というジャッジがあります。優れていなければダメという価値観は、がんばらなければならない・がんばれずに結果を出せない人は価値が低いという考えです。

もちろん社会においては必要な世界観です。けれどもし、自分が劣っている側だったら? 環境が変わって評価が下がったら? 身体や精神を病み、結果を出せなくなったら? 老化によってできなくなることが増えていくとしたら? 自分の価値は低くなってしまうのでしょうか?

そんなことで崩れてしまう自己肯定感が健全なものだとは、わたしには思えません。優れておらず劣っていたとしても、生きていていいし自分を好きでいい。それが健全な自己肯定感ではないでしょうか。優れているという他者評価は、自己肯定感を得る過程において、補助的なものでしかありません。

他者評価を絶対とする価値観の内面化は、対人関係においてあまりよくない働きをすると感じています。特に親子関係において。親が他者評価(世間体や常識など)を絶対としていると、それは子どもの自己肯定感を削いでしまう可能性が高いです。子どもはその価値観を内面化させ、親となったときに更に自分の子どもへと押し付けてしまう。それがいわゆる毒親なのだと思います。

自分が内面化している価値観・世界観を自覚し押し付けないようにすること。それが子どもの健全な自己肯定感を育むためには、無条件の愛情を注ぐこととともに、親となる上で必要なことだと感じています。

他者評価は決して悪いものではありません。健全な自己肯定感があれば、他者評価が高くても低くても上下しても安定した自分でいることができるでしょう。ジャッジしない世界観とジャッジする世界観の両方に適応することができるでしょう。

優越感の裏にある劣等感には、多くのひとが悩まされていると感じています。自分が感じている痛みが他者にもある、同じように五感を伴っている。そう思えたときに、優しい気持ちが生まれるのかもしれませんね。

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