成田正人『なぜこれまでからこれからがわかるのか デイヴィッド・ヒュームと哲学する』(青土社)の読書メモ②:第四章から第六章まで
(2024/4/20: 一部加筆修正)
キーワード:一般的な帰納と個別的な帰納、観念の自然な連合(類似、隣接、因果)、必然的結合、蓋然的に確信できる信念、自然の斉一性と不斉一性、蓋然性、一般化の正当性、帰納の認識論的な問題の「懐疑論的な解決」、習慣的な自発性、「懐疑論的な解決」以後の正当な帰納、「現実の存在」と「想像上の基準」。
帰納の二区分と前提
私たちは自分が直接は経験していないことを推論します。直接経験したことを帰納的に推論することは、まずありません。今わたしがこのメモを書いているときは残暑(秋)ですが、わたしは秋の次に冬が来ることを(まだ経験していないのに)知っています。そういうときに私たちには帰納による推論が欠かせません。帰納は「現前しない現実」(103p)を知るためには欠かせないものだからです。ところで、帰納には一般的なものと個別的なものがあります。私が帰納的に推論する今はまだ来ていない「冬」は、一般的なものでしょうか、それとも個別的なものでしょうか。ヒュームに従えば、どれだけ一般的な観念であろうと、それはある観点から見られた個別的な観念なのですが、とはいえこの区別の有用さは失われません(ヒュームもそれは同意するでしょう)。帰納には一般的で「全称例化」を導くもの(「すべてのa種の個体がFである」)と別の個別的な一回(「経験していない別のa種の個体がFである」)を導くものがあり(104p)、後者は前者に含まれることで正当化されます。とはいえ、「全称例化」を導く帰納にはどんな正当性があるのでしょうか、と著者は問います。ひとまず「健全な帰納」(108p)の前提には、印象と記憶の観念が必要である、と著者はヒュームに則って言います。それが他人の証言である場合でも、信頼できる誰かの記憶が頼りとなります。このことは個人の証言がどういう(社会的)帰結を生むか、という歴史哲学の問題にも関わってきそうですが、著者はそこには触れていません。このあたりは別の面で掘り下げられそうな気がします。いや、すでに掘り下げられているのかもしれません。
観念の自然な連合(類似、隣接、因果)
著者が言うには、帰納の結論であるべき知覚は「信念」を置いてほかにはありません。確かに、帰納によって生き生きとした活気を吹きこまれた想像は「空想」ではなく「信念」であるはずです。しかしそれは活気の程度の話であって(事象)内容の話とは断絶しています。帰納による結論にはどんな(事象)内容が必要なのでしょうか。ここでヒュームの有名な「観念の連合」の原理が検討されます。帰納の前提である印象と記憶から、どんな「信念」へと移行するべきかを決める正当な(理性による)理由はおそらくないだろうと著者は述べたうえで、ヒュームの観念連合の原理を提示します(112p)。この原理には「類似」「時間と空間の隣接」「原因と結果」の関係という三つの関係があります。とはいえ前の二つの関係は、それだけでは必然性を持たないので、こうした「類似」と「隣接」に必然的な効力を持たせるためには最後の「原因と結果」の関係が欠かせないようです。以上のことから、印象や記憶から信念へと自然に移行するためには、つまり私たちが自然に「健全な帰納」(108p)をするためには、因果関係(原因と結果)の効力が欠かせないわけです。著者はそこからヒュームとともに一歩踏み込んで、ある問いを投げかけます。
私たちは必然的結合をどうして信じるのか
というのは、つまるところ因果関係の起源はどこにあるのか、という問いです。つまりそれはどのような印象に由来するのか、ということです。これは第三章の末尾で著者が問いかけた「印象の活気はどこから来たのか」という問いと似ていますが、今回は活気の程度だけではなく(事象)内容の起源にも向けられた疑問です。因果の関係の観念はどこから来たのか。ヒュームはまず原因と結果の時間的・空間的な「隣接」と結果に対する原因の時間的な「先行」の二つを挙げます。しかし、隣接・先行は因果関係にとって必要条件であっても十分条件ではないので、その二つだけではない、と言われます。ヒュームはその二つよりも重要な観念として「必然的結合」の観念を挙げます(116p)。しかしそれは眼には見えません。因果関係の事例をどれだけ洗い出そうと原因と結果が必然的に結合するような性質や関係は見つけられません(本当にそうでしょうか?)。あらゆる単純観念にはそれに先行する単純印象がなければなりませんが「必然的結合」の観念の基となる印象はどういうものなのでしょうか。著者によるとヒュームはそこで問題の立て方を変えてみます。「すなわち、ここからは、原因と結果の必然的結合(の印象)とは何なのか、とは問われずに、なぜ私たちは原因と結果の結合が必然的だと思うのか、と問われることになります」(117p)。
蓋然的に確信できる信念
前に述べた二文法を援用すれば、因果の関係は「観念の関係」ではなく「事実の問題」です。だから、原因と結果の関係は、必然的ではなく蓋然的なものであることになります。ヒュームの言うとおり「観察と経験」によって原因は特定されなければならないからです。「必然的結合」であるべき因果的な帰納の結論は、前に見た通り「健全な帰納」の前提が印象と記憶であることから、信念の知覚であるべきであって空想の知覚であるべきではありません。そこにあるはずの「必然的結合」は、出来事の恒常的な連接の経験から生まれるのかといえば、決してそうではないようです(120p)。私たちは因果を信じますが、では、なぜ因果を信じるのか、著者はそれがヒュームの問いだ、と言います。ヒュームの因果的な帰納から導き出される結論は、論証的に確実な知識(観念の関係)ではなくて、蓋然的に確信できる信念(事実の問題)でなければならないのです。なぜならそれこそ(原因と結果の関係)が「私たちに現実の存在を確信させる」からです(122p)。どうやら、私たちは原因と結果の関係を考えるかぎり「帰納の問題」からは免れ得ないようです。
自然の斉一性と不斉一性
次の著者の問いは、ヒュームにとっての「帰納の問題」、いや、あらゆるすべて人間にとっての「帰納の問題」に関わると言うべき「自然の斉一性」の合理的な正当性は存在するのか、という問いです。ヒュームの知覚論における「活気の程度の問題」と「(事象)内容の問題」は互いに独立していることはすでに見てきましたが、この二側面から現在の印象を生き生きと(因果的に)活気づけられた「観念」こそヒュームの言う「信念」である、と著者は再度確認します(126p)。
(著者の面白い点は、虚構を空想するのにどうして妥当な帰納をしなければならないのか、どうしてもっとめちゃくちゃな想像をしないのか、等の自らの問いかけに対しヒュームの知覚論に沿って答えを出していくところでしょう。それが著者の思考の抑制になっており、その試行を見ることは他人の哲学研究の面白いところです。前の章の問いといくらか重複しているとはいえ、繰り返し問われると私としては助かります)。
著者は再々度ヒュームの「観念の関係」と「事実の問題」という二文法を呼び出し「自然の斉一性」がどのような原理かを問います。まずそれは「観念の関係」としては論証されないことは明らかだと言われます。彼の「思考可能性の原理」を思い起こせば、自然の歩みの大きな変化を想像することは容易く、そこに「観念の関係」から論証されるようなことはありません。しかし著者は取って返して、私たちは「自然の不斉一性」というものを本当に思考できているのだろうか、と問います(130p)。確かに、どのような自然の変化が自然の斉一的な歩みから外れていると言えるのか、と言われると現実に起きる自然の具体的な歩みを参照せざるをえませんよね。「自然は自然法則に従って歩みを変えたはずです」(130p)。著者の言う通り、私たちの帰納がどれだけ外れようと自然法則は斉一的ではないか(誤りがあるとすればつねに私たちの帰納の側にあるのではないか)、と思えます。つまるところ「私たちには、具体的な規則性や類似性を見つけることなしに、抽象的な「自然の斉一性」を唱えることはできません」(131p)。要するに、本当に自然の歩みが斉一的でなくなれば、おそらく私たちは帰納することもできなくなりますが、斉一的でない自然は少なくとも思考可能ではあるということです。私たちは(科学者でなくても)普段から抽象的な自然の斉一性を考えますが、そうでなければ「外れた帰納を反省」(133p)する意味がどこにあるでしょうか、と著者は言います。このあたりは驚くほどクリアな回答でした。
蓋然性
著者は以上を踏まえて「自然の斉一性」を「事実の問題」すなわち蓋然的な信念の問題であるとします。「健全な帰納」の結論は、知覚の内容の観点からすれば、生き生きとした(原因と結果の関係に活気づけられた)印象と記憶が含まれる蓋然的な信念でなければなりません(そうでなくては空想になります)。しかし、ここでもどう理解するのかが微妙になるところです。「自然の斉一性」はそれ自体が因果的に帰納された原理――すなわち、今ここで自然は斉一的だったのだから、別の場所、別の時間でもこのことは経験されるだろう――というものだからです。「自然の斉一性」という信念を生んだ帰納を正当化するために「自然の斉一性」を帰納して正当化するという手段は、著者の言う通り「論点先取」(136p)でしかありません。「それゆえに、「自然の斉一性」は帰納を合理的に正当化できません」(136p)。ところでヒュームにとっての「蓋然性」は私たちが「帰納」と呼んできたものと同じものです(134p)。この「蓋然性」は「観念の関係」としての論証的な知識とは区別され、さらに確信の度合いが高い「立証」と確信の度合いが低い狭義の「蓋然性」とに分けられます。確信の度合いが低い事象を扱うときに私たちには「確率」という手段がありますね。普段から私たちは台風が過ぎ去った後はカラっと晴れて暑くなるだろう、と予想します。それは今まで数多くの天気予報を聞いてからそう確信したのかもしれません。たとえば気象庁のシミュレーション結果を聞いて晴れである「確率が高い」と思っているのかもしれません。しかし、なぜそのように思ってしまうのでしょうか、と著者は問います。ヒュームに則るなら、ここでも、すでに見たような「自然の斉一性」が因果的な帰納を合理的に正当化しないという発見をここでも展開することができるようです。つまり(著者の言い方では)「確率の斉一性」をもって帰納を正当化することはできないわけです(138p)。以上を要約すれば、確信の度合いが高い「立証」と低い「蓋然性」は区別することができますが、確率が高いことをもってして(確率論的な「確信の度合い」をもってして)、それを信じることの正当な理由があるわけではないということです。
一般化の正当性
著者は今までヒュームの知覚論の観点から「帰納の問題」を考えてきましたが、その過程で「帰納の問題」はすでにその枠に留まっていないことが明らかになってきました。それが「自然の斉一性」という原理です。そもそも「自然の斉一性」はどうして、どこで「要請」されるのでしょうか。「太陽は東から昇る」といった個別的な経験から「つねに太陽は東から昇るだろう」といった一般法則にジャンプするときにこそ、それは「要請」されるようです(141p)。個別的な経験から一般法則を帰納する、というこの順序は動きません。「つねに太陽は東から昇るだろう」という一般的な帰納は太陽と地球が位置する場所に限られた「帰納」であるとはいえ「自然の斉一性」という観念(蓋然的な信念)にはそうした時間的・空間的な制限はないでしょう。だからこそ、帰納の正当性の問題は「未来」の問題に制限されず「それがいつどこのことであろうと」(144p)個別的に(信念を導き出す)帰納はすべて「一般化の正当性」の問題に帰される、と言われるのです。そのとき個別的な帰納の内容における個々の正当性は問う必要がありません。第四章の冒頭で見たように「全称例化」を導く帰納の一般化の正当性を問えばいいのであり、別の個別的な一回を導く帰納は、未来や過去といった時制における「一回」であるとする必要もありません。「それがいつどこのことであろうと」、後者は、私たちの経験していない個別的な(別の)一回についての「信念」だからです(146p)。
帰納の認識論的な問題の「懐疑論的な解決」とはどういう解決なのか ~クリプキ~
ここでも「帰納の問題」の鍵になるのは「自然の斉一性」ですが、ここで著者が主張するのは、いわゆる帰納的な信念についての「自然の斉一性」の一般的な正当化の問題は、ひろく認識論的な問題である、ということです。認識論的な問題といっても「観念の関係」から論証的に知りうる「知識」のことではなくて「事実の問題」から帰納的に知りうることです。すでに見たように「帰納の問題」とはあくまで私たちが経験していないことを知るために使われるものです。昨日食べた夕食が〇〇だったという記憶について、一般的な正当化の問題は問われません。それゆえに私たちの経験(印象)と記憶の正当性は「帰納の問題」にはなりえません(153p)。もちろん印象と記憶は「健全な帰納」にとって必須の前提です。標準的な「帰納の問題」とは「帰納的な信念」それ自体がどうして妥当なのか、という問題、つまり「認識論」の問題なのです。著者はヒュームの用語に則ってこう言い表します。「すなわち、帰納的な想像(の内容)はどうして正しい(といえる)のか。あるいは、どうしたら帰納は、空想でなく、信念を想像することができるのか。」(153p)すぐに明かされることですが、この「事実の問題」についての帰納的な信念の問題は、正面から解決されるものではありません。それが「懐疑論的な解決」と呼ばれます。どういうことでしょうか。著者はここでクリプキの文を引用して、帰納的な一般化の正当化が不可能であることを受け入れながら、かつ、そうした(懐疑論者たちによっても不可能だとお墨付きを得た)「自然の斉一性」の合理的な正当化の要求がそもそも私たちの「帰納」という営みには不必要なものではないか、と、最初の問いをソフトに着陸させていきます。そうして「問題ごと解消される」(157p)このような懐疑論的な解決の仕方は、著者が言う通りヒュームの「自然(本性)主義」に引き寄せて考えることができるようです。要するに「自然の斉一性」や必然的結合といった観念の正当化の可否は、そもそも「人間の理性的な正当性(や不当性)に与りうる」(156p)ところのものではなく「私たち人間の自然本性上どうしても抱かざるをえないものである」(156p)と考えるわけですね。著者はクリプキのような「懐疑論的な解決」をヒュームの「自然(本性)主義的な解決」と重ね合わせています。この(理性的に正面から解決することを「放棄」したとも捉えられる)「解決」には肩透かしを食らう人たちがいるかもしれません。一見するとその肩透かし感は正しいように見えますが、ここで肩透かし感を得る懐疑論者は自分で自分の首をしめていることに単に気づいていないだけでしょう。真に問題なのは、懐疑されていた問題自体が懐疑により解消されるというその事実であり、また、著者が言いたいのは理性的な正当化の道とは「別の道」もある、ということではないでしょうか。次は、その「別の道」を探すことになります。
習慣的な帰納が因果的な必然性の起源であるわけ
実は、私たちはその「別の道」をすでに知っているのではないかと(実際の言い方とは違いますが)著者は言います。「どういう帰納が正しいのか」というヒュームの問いを思い出しますと、原因と結果の関係によって生き生きとした活気が吹きこまれた信念を導いてこそ、帰納の結論として「正しい」はずでしたね。もちろん原因と結果の関係は必然的結合を証明せず、そこに見つけることができるのは恒常的連接でしかないですが、それはヒュームによれば「習慣」による決定と言われます(158p)。たとえば、信号機の赤色の明滅は、次に青、次に黄色、再び赤というように反復されます。そうした習慣づけによって運転手は安定的に車の停止と発進を判断し、実行することができるでしょう。とはいえ、信号機のようにそれ自体はすぐれた習慣的な移行として見える事例があっても、それはあらゆる原因の観念が結果の信念につねに至ることを保証しません。前に見たように、印象と観念の活気の程度は知覚の(事象)内容とは独立であり、なおかつ印象と観念は「同じ」(事象)内容を共有しなければならないことを想起するなら「原因の印象」が結果の「信念」を正しく帰納することはありえるでしょうが、それが「原因の観念」であるなら、印象のような勢いのある「活気」が足りないために結果の「信念」を正しく帰納することはできないでしょう(159p)。これまでに見てきた通り、ヒュームにとっては今ここに「現前する印象」こそ、あらゆる「現前しない現実」の起源であり、「帰納の問題」もとい(因果的な)「正しい帰納」にとって(「原因と結果の関係」だけではなく生き生きとした勢いと活気のある「信念」にとって)必要不可欠なものなのは明らかです。このときに「理性的な正当性は必要ありません」(160p)と著者は言います。私たちは理性的な推論を抜きにして、習慣的に、自然に帰納してしまうからです(そもそもこの習慣というものは、ヒュームによる道徳的な虚構なのか、あるいは心理学的な解釈機構の一例なのか、どちらなのでしょうか?)。こうして著者は、以前の問い(因果関係の起源とは?)に対して、ヒュームに基づくことで、ある一定の回答を与えているように思えます。それは、因果的な必然性が私たちの帰納を正当化する合理的な基盤なのではなく、むしろ「習慣的な帰納が因果的な必然性の起源である」(161p)というものです。(これもやはり「理性的な正当性」からはその当否を決して明らかにすることのできないものなのでしょうか。そうかもしれません。しかし、そもそも「習慣的に、自然に」導き出される帰納という言葉自体がまさに学者的な筆法でしかないのではないでしょうか?)
「懐疑論的な解決」以後の正当な帰納とは何か ~グッドマン~
ところで習慣的な帰納は、すでに見た区分を用いて言えば「全称例化」を導く一般的な帰納ではなく、別の一回を導く個別的な帰納です。「理性的な正当性の観点」からすると、確かに個別的な帰納は、一般的な帰納(因果的な必然性の観念)に依存しますが、その「自然(本性)主義的な解決」すなわち「習慣的な自発性」(162p)の観点からすると、まず個別的な帰納が信念を習慣から自然に推論することが先行し、そこから一般的な帰納が後続することになります。ヒュームの因果論によれば、個別的で習慣的な帰納による「信念」の獲得から、因果的な必然性(の印象)が生じるようです(162p)。しかしどちらの帰納も、帰納であることには変わりません。著者は個別的な帰納と一般的な帰納をそれぞれ「自然的な帰納」と「哲学的な帰納」というように分けられるのではないかと言います(163p)。「全称例化」を導く帰納はあらゆる「対象」と自然に結びつくとされますが、すべての対象が自然に結びつくことは考えにくいことです。どう理解していいか微妙なところですが、「一般化」にはある程度の「恣意的な結びつき」(163p)が必要であるゆえに「哲学的な帰納」なのかもしれず「自然的な帰納」は一方の「印象」から他方の「信念」を導くかぎりにおいて、本当に自然的なのかもしれない、と言われます。個別的な帰納は別の(任意の)一回を導く帰納ですが、本当に「自然的な帰納」は「次の一回についての信念」(164p)である、と言われる点がより重要です。どう重要なのかというと、個別的な帰納から導かれる任意の一回は他の(それに類似する)個別的な諸観念と結びついて一般化された信念を演じ、そのとき任意の一回は一般化との間に差異がなくなりますが、「次の一回についての信念」は、他の任意の一回とは並列できない(164p)という点が重要なのです。こうして著者は「自然(本性)主義」的な観点に立ち、本当に「自然的な帰納」は、別の(任意の)一回ではなく「次の一回の結果の信念」(165p)を(現前する原因の印象から)導くものである、と言います。これは驚くべきことではないでしょうか。しかし、著者は「自然的な帰納」と「哲学的な帰納」のあいだには悪循環が指摘できるかもしれない、と言います。確かに、自然(本性)的には、後者の因果的な必然性の観念(信念)は、前者の因果的な必然性の印象に依存していて、論理的には「前者は後者の全称例化から合理的に妥当」(165p)します。しかし、グッドマンからするならこれは好循環かもしれません。なぜなら個別的な帰納と一般的な帰納は互いに足りないところを補い合っていると見ることができるからです。たとえば、前者にはない一般的な妥当性を後者が補い、後者にはない因果的な必然性を前者が補う、というように。また、グッドマンにとって帰納の問題は、もはや証明の問題ではなくその予言が妥当か不当かを定義する問題であり、それを受けた著者が斟酌するように「懐疑論的解決」を経た今では、証明の問題から、どのような帰納(の信念)が正しいのか、という記述的な正しさの問題に移行しているからです(167p)。
ヒュームの確率論はどういうものか
それでいうと、ヒュームにとって正しい帰納と誤った帰納はどう区別されるのでしょうか。著者はヒュームの確率論にそのヒントがあると考えているようです。前に見たような確信の度合いが高い「立証」と確信の度合いが低い「蓋然性」という区別が、正しい帰納と誤った帰納の区別に対応するのかもしれません。帰納が確率論的に正当化されることは決してありませんが、著者の言う通り「確信の程度」から大まかに帰納の当たり外れを区別することはできそうな気がします。そこでヒュームの確率論がどういうものかということを著者は説明します。まず、前提として「近世の哲学者たちの間に、知覚(の活気)の私秘性についての共通了解」はないかもしれず「確信の程度」は各個人で異なる主観的なものではない(知覚の活気も同様に私たちの私秘性によるものではない)ということが理解されなければならないようです。ヒュームの確率論は「物理(主義)的な頻度説」というよりは「間個人(主義)的な確率あるいは論理(主義)的な確率」であるかもしれないと言われます(170p)。「確信の程度」に基づく確率は、個人間で異なるものではありません。私たちは普通のサイコロの前では、想像の偏向を無くして「一般に共有できる確率」(170p)を考えます。それは各個人の(心の)私秘性によるものではなく、人間の(自然)本性に基づくものです。それが「間個人(主義)的な確率」です。
「現実の存在」と「想像上の基準」 ~コヴェントリー~
しかし、著者はこう問いかけます。「でも、そのような帰納(的な信念)の正しさとは、一体どのような正しさであるのでしょうか。もしそれが「確信の程度」から(たんに)確率論的に定義される(だけ)なら、それは結局のところ極めて高い蓋然性にすぎないのでしょうか」(173p)。著者はそこでコヴェントリーを援用することでヒュームの因果論に「準実在論的な解釈」(174p)を施すことになります。そこでは、私たちの帰納的な信念は外的な実在との対応によって「真偽」の区分を得るのではなく、理想的な「想像上の基準」から(コヴェントリーと著者の言い方では)「真理値」を得ると言われます。「事実の問題」での帰納的な信念についてヒュームの「真理の対応説」(173p)に着目し、ヒュームが言う「現実の存在」を、コヴェントリーの言う「想像上の基準」と同一視することを著者は試みます。その際、コヴェントリーも引用する「趣味の基準について」というヒュームの文章からこの論拠を補強しています。ここの解釈は美学や道徳の問題が絡んでいて読ませるところもあるのですが、長いので割愛します。
最後に、個人的な意見ですが、コヴェントリーの言う理想的な「想像上の基準」は、ヒュームの「現実の存在」よりは、むしろ「習慣」と同一視したほうが(前後の文脈から)もう少し論旨がはっきりしたのではないか、と思いました。さて、次回は第七章と第八章を読んでいきます。