クリスチャン・ボルタンスキー展:死の体験旅行
ボルタンスキー展は、精神的刺激が強すぎて、色々な感情が喚起されっぱなしで、見終わる頃には1つの旅が終えたような気にさせられる。旅行を終えた後に自宅のベットに飛び込んで、旅先で体験した出来事を思い出して振り替えりつつも、ぐったりと疲れた体を癒すためにベットに体を委ねているあの脱力感に似ている。ただし、その体験の中身は「死」で、死の淵から死そものも、そして死後の世界まで描かれている死にまつわるフルコースだった。
「Departure」(出発)というライト文字から展示の案内が始まり、最初に目につくのが、醜態を晒している老人の嘔吐や、ねっとりとした薄気味悪い性的な映像で、目を逸らしたくなる作品からスタートする。その次には、思い出の品々と思わせるような写真や遺品のような展示があり、人の顔が投影されるカーテンの間を通り抜けると、先程のものものしい雰囲気は一転して、安楽な気持ちにさせるチャペルのような静寂な空間に導かれる。
純粋さの象徴のように感じる子供達の写真が祀られている空間の背後からは、老人の嘔吐の声や、心臓の音、そして次の展示から聞こえ漏れてくる綺麗な鈴の音たちが響き渡っている。そして、三途の川を喚起させるようかの渡り廊下を通り過ぎると、その次には、死そのものが展示テーマに移り変わっている。作品に近づくと、教えてという語りかけから始まり、「一人だったの?」「一瞬だった?」「意識はあったの?」と、聞かれることをきっかけに、他人の死をみていると思っていたのに、ここで一転して、展示を見ている自分自身が死後の世界に入ってしまったんだと気付かされる。アート作品と自分という離れた関係性のものが、徐々に距離を縮めて一体化させられる感覚に驚かされる。そして、展示の最後のセクションは、来世となり、「Arrival」(到着)というライト文字で締めくくられる。
展示自体が一つのストーリ自体になっている手法に感動して、キュレーターは誰なのかと調べたところやはりというか、アーティスト自身が、展示内の仕切りも含めて深く関わっていたようだった。独立して存在していた個々の作品をアーティスト自身が再構築することで、個々の作品の和よりも大きなストーリを作ることに成功している。だからこそ、見終わった後に1つの旅行を終えたような完結感があり、単なる作品の鑑賞からアートによる死の体験にまで高められていて、展示の仕方さえも一つのアートの領域を作ったようにさえ感じられた。
同じタイミングで実施されている森美術館の「魂がふるえる」が「命」の生の部分にフォーカスしているの対して、この展示は「死」に想いが馳せされている。同じ「命」をテーマにしていてもアーティストによって作品への昇華の違いがあり、2つの展示を見ることでそれぞれの違いが際立ってくるからより面白い。六本木という同じ場所にある森美術館と国立新美術館が裏で協力しあって展示のセレクトしたのではないかと思うぐらい、コインの裏表感があり、この2つの展示は、ぜひセットで見て欲しいなと思った。