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Aiはクリエイティブの分野において人間に取って代るのか?

「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」を読んで雑感

平野暁人さんという翻訳者のnoteの記事「もうすぐ消滅するという人間の翻訳について」を読んでここ数年の生成Aiに対して自分の中でなんとなくしっくりこないというかモヤモヤしていたものが色々腑に落ちた。

この方はプロの翻訳者で、多くの人は翻訳はある国の言語を違う国の言語に単純に翻訳することだと思っているのかもしれないが、たとえば海外の文学や映画などは翻訳者の文学センスによって私たちの心の琴線を震わす作品に生まれ変わってこの国に届けられていることに気がついている人が今どのくらいいるのだろうか?

翻訳するという行為は単に言語的な能力だけでなく、その作品を生み出した作者の国の文化や歴史、作品で表現されている国や文化歴史はもちろん作者が何をその作品で訴えたいのかまでを理解し、かといって翻訳者個人の主観や感想を交えることなく、文化歴史も日本語という言語に置き換えるというとんでもない作業を行っていると言うことだ。

もっとも活字離れが進む現在果たしてどれだけの人が海外文学を読んでいるかは疑問であるが、少なくても洋画は見る機会があるだろうと思ったが、予算をたっぷりかけたハリウッドのアクション映画はセリフが聞こえなくても内容がわかってしまうことに気がついた。

しかし今の若い人が活字を読まないかと言うと「ライトノベル」と言われるものや「なろう系」と呼ばれる投稿小説を好んで読んだり自ら書いた小説を投稿する人達が一定数いるのだから完全に活字離れがおこっているとは考えにくい。

ただこのように活字に触れる人にとっても芥川賞に代表される文芸というのはハードルが高いものなのだろうか?ライトノベルは読めても直木賞などに代表される大衆小説はやはりハードは高いのだろうか?


小説を読むという行為は作者の心に触れるようなものだと思っている。

そう考えると翻訳者の責任は大きい。作者の心を異なった言語で伝えなければいけないというのは、もしかしたら小説を書くことより難しいのかもしれない。

平野氏もnoteで書いているように、翻訳の仕事が無くなったり減ったりしているのは、もちろんAi翻訳が原因だけではないだろう。活字離れも原因の一つだろうし、長引く不況や円高なども大きな原因だろう。特に円高の影響は小説だけでなく海外のアーティストや劇団を招聘して行う演劇や公演が激減したことでも明らかである。


コンピューターによる翻訳は機械翻訳と言われ特にインターネットでGoogle翻訳がサービインされたのが2006年。しかしながらGoogle翻訳は実用にほど遠いものであった。

平野氏も言っているが(以下平野氏の文を引用)

処理しきれない部分を巧妙にねじ曲げ意味が通るように改竄したり、あまつさえパラグラフを丸ごとカットして素知らぬふりを決め込んだりと暴挙に及ぶことも厭わないDeepLに重要な文書を丸投げするのはあまりにリスクが高く、「機械翻訳を使いこなすにはまず自身が相当の語学力を身につけるべし」という人々の良識は揺るがなかった。

「Googleは不器用だけど真面目な学生、DeepLは要領はいいけど不真面目な学生」と言って笑う者もいた。

それが2023年に登場したChatGPTの生成Ai翻訳で翻訳に終わりを運んできたと言わしめている。


果たして本当にそうなのだろうか?

先に書いたように翻訳者というのは単に英語を日本語に変換するだけでなく作者の心を他の言語で伝えるというクリエイティブな作業である。

果たしてそれが現在のAiで可能かというと不可能だと思っているし将来的にどれだけ技術が進歩しても無理だと思っている。

平野氏もそれは否定している。それでも平野氏は人間の翻訳は終わると言い切っている。その理由は、「人間の側が翻訳に対する要求水準を下げ始めたから」であると。

機械の意図を汲みにゆくことで
機械の精度に合わせて降りてゆくことで
人間が人間を終わらせ始めている。


この「人間が人間を終わらせ始めている。」がポイントでAiなんか関係なく、翻訳だけでなく生活のすべてにおいて、手作りの職人芸なんか、気付かないうちにいつの間にか必要とされなくなっていたことに気がついてがく然とする。

セントラルキッチンで作り出される食品しか知らない人にとってはそれが当たり前のことだ。手作りのものが存在することすら知らないかもしれない。知っていてもそれに高額の対価を払ってまで手作りのものを口にしようと思う人は少ないだろう。

Aiが今後クリエイティブ分野に及ぼす影響を想像すると、翻訳家だけでなくデザイナーや作曲家、作詞家などすべての創造的作業に携わる職業は明日は我が身なのだろう。

なぜなら、だれも伝統的あるいは職人芸など求めていないのだから。

私のグラフィックデザイナーという職業にしても、ツールが筆や烏口からデジタルのphotoshopやillustratorに取って代られた時から職人芸としてのデザイナーの終わりへのカウントダウンは始まっていたのかもしれない。いや確実に始まったのだろう。

それでも始めのころは、紙と筆がマウスとモニターに変わっただけで、人間のアナログ的な思考や知識は必要とされていたしデジタルならではの職人芸も存在していた。

本を読み映画を見て人と話しをして自分の頭の中の引き出しの中身を詰め込むことによって職人芸でアウトプットされ生み出されるものが他人の心を奮わすのだと信じていた。

しかし今や生成Aiが多くのデザイン作業をアシストし、チャット画面から求める成果物を入力するだけでロゴやマーク、チラシなどの成果物を吐き出してくれる日も遠くない。

印刷物が世の中から消えればデータの作成の自由度と難易度は段違いに上がる。

Aiが生成する成果物に心を震わせる何かが宿って無くても、見る人間がそれを求めていなければそれで良いのだろう。
求められないのに高いクオォリティーを求めて努力するなんて、まあ結局自己満足なのだけれど、でもそれが文化を生み出し育てて来たのだと思いたいし信じたい。

ただし、確実にそして着実に我々の世界から文化が消えて行くのだろう。日本が黒船によって開港され日本独自の文化が失われて来たように、Aiは第二の黒船として日本人から文化を奪うことになるかもしれない。
まさに、「人間が人間を終わらせ始めている。」そんな時代なのだろうと思う。

デザイナーなんて横文字のかっこいい呼び名じゃなくて「紋章絵師」みたいな呼び方して欲しいと思う我々の世代はもはや絶滅危惧種なのかもしれない。


脱線するが少し前に米津玄師というシンガーソングライターのインタビューをテレビで放映していて、改めて彼の書く歌詞が綺麗な日本語使っていて関心していたら、宮沢賢治、石川啄木、種田山頭火などを好んでいると聞いて納得した。
でふと思ったのだけど、将来AiがDeepLにより彼のような歌詞を生成することは可能なのだろうか?

もしAiが生成することが出来なかったら、彼の書く歌が好きな人達は彼のような曲が生まれてこなくても、「人間の側が歌に対する要求水準を下げ始めたから」と言って納得してしまうのだろうか?


人は一日学べばその分成長する。それが学ぶということだ。
なんてことを聞かされて育った私たちは死ぬ前の日まで学び続けるのだろうなと思う。
Aiに必要以上に依存することはある意味学ぶことを放棄することのような気がする。


SNSに投稿した記事に教え子がレスしてきて、なんかとんちんかんなレスだったので突っ込んだら、私の記事をChatGTPにコピペして要約させて返事を書かせたらしい。
これって自分で理解しようと言うことを放棄しているし、生成された回答が的外れかどうかも検証してないと言うことだよね。なんかもう情けないやらなんやらで。

まだまだAiは平気で嘘つくし外れの多い「ガチャ」みたいなところはあるけど、それでも色々便利になっていて、画像から余分なもの消してくれたり、CSSのソースを生成させたり仕事の効率アップはしてくれて便利になっていることは間違いない。

それでもAiが生成したものが正しいかどうか見極める知識は必要で、Aiもこの程度が丁度よいのではないだろうかなどと勝手に思っている。

頭の体操かねてこんな文章作成をAiに依頼する気もないし、企画書作成も色々なことを調べて行く過程で学べることが多いのでAiなんかにお任せしたくない。


Aiにコンテンツ生成させたら検索のランキング下がったのはAiが生成したものだから?という話を聞いた。そういう風に疑問を持つ時代なのかなと思う。

「ググル」は終わった。これからはAi検索。Ai検索で上位にランキングさせるノウハウだとか、私の頭が固いのか意味がよくわからない。

そもそも検索をAiで行うということは、サイトへ誘導するリンクが表示されるのではなく、検索したい内容そのものを表示させるはずなので、Ai検索そのものがサイトへの誘導にならないのでは無いのかと思うのは私だけだろうか。調べたい内容が表示されるのであれば何もわざわざサイトへ行く必要などないと思うのだけれど。

その上でAiに自分のコンテンツを表示させたいのなら、方法は簡単で正しくて役に立つ良いコンテンツをサイトに継続して掲載し続けることだと思う。
もっとも自分が良いと思ったものをAiがそれを良いコンテンツと認めてくれるかは別問題だけれど。

そう考えるとnoteってブログよりこれからのコンテンツ配信ツールとしては良いかもしれないと思ったりする。記事の有料化やサブスクなど課金システムと連動しているのも良い。

ちょっと放置していたけど少しnoteも投稿しようかと改めて思った。


いろいろ脱線したけど書籍のような活字のコンテンツって想像力が養われる優れたコンテンツだと思う。漫画や映画が悪いわけではないけれど、小説を読んでその世界をビジュアル化するのは自分の脳に蓄積した知識で、ビジュアル化出来なければ昔なら図書館行ったり本屋さんで立ち読みしたけど、今ならスマホで検索すれば世界中の情報が手に入る。

何がスイッチでもきっかけでも構わないけれど、わからないことがあったら調べることで自分の知識に出来るきっかけになるという意味でも活字のコンテンツは有効だと思う。

想像力が足りないから人に優しくできない。人の気持ちがわからない。
Ai生成では想像力は養われないと思う。


小説家とか作曲家ってすごいなあと本当に思う。
死には二つあって物理的な死と記憶からの死。

私が死んだら家族友人までで、生きていても私のことすっかり忘れて覚えていない知人や教え子きっといる。
すべての小説家ではないけれど、小説家や作曲家ってそういう意味では不死身ですね。
私の名前を忘れても、私の生き方や言葉が誰かの記憶の中に残って引き継がれていったらうれしいな。


Ai、さてこれからどんな成長を見せてくれるのだろ。楽しみでもある。

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