「いいね」のない生活のすゝめ


16年間続いた学生生活も
残すところ58日で終わる今日この頃、
これまでの生活や思い出を
何かと思い返すことが多くなりました.

その過程で自分が「よし、これはやってみよう」
と行動に移してみているいくつかのことがあります.

タイトルはいつも通り「すゝめ」で統一していますが、
これは「この時この瞬間の私はこう思っていたんだな」
という備忘録として書き留めたいと思います.

Instagramを辞めた


やっていない人を見たことがないくらい、
私たち女子大生はほとんどの人がやっているのが
Instagramです.

私はInstagramが日本に入ってきて割と直ぐに
海外文化に興味のある友達から誘ってもらい、
2012年頃からアカウントを持っているので
利用歴は割と長い方なのだと思います.

その時は「写真だけのTwitterみたいなもんか」
と思って大して利用していなかったのですが、
今や社会現象と言えるほど普及していることは
今更私の説明も要らないほど周知の事実ですよね.

私も最近まではかなりヘビーユーザーで、
「映え」そうなものを日常生活から見つけ出して
上手く加工しては毎日投稿していました.

ではどうしてInstagramを辞めたのか.

大きな理由は「他者評価の中で生きていたくない」
と強く感じるようになったからです.

SNSには何かと「いいね」や
共有するための拡散機能がついていたりします.

それによってたくさんの「いいね」を貰うために
所謂「映え」る写真を撮影する毎日と
友人関係のなかで投稿を巡って起きるいざこざに
少し疲れてしまった自分に気づきました.
(SNS疲れ...というやつ?)

そこで、Instagramを辞めてみました.
「あー、めんどくさ」みたいな思いつきで.

そうしたら、
他者のキラキラした毎日を見て自分と比較すること、
自分が日常生活から無理矢理キラキラを探すこと、
それらにまつわる人間関係のいざこざから
一気に解放されました.

さらに、自分の中にあった
余計な見栄みたいなものが剥がれてきて、
「私自身」を考えることができるようになりました.

具体的には、
・「自分なんて...」と自分の現状を他者と比較して劣っていると考えてしまうこと
・「他の人にこう思われたくないから、こういう投稿は避けよう」という考えがあったこと
・「いいね」を押さないと友人に「自分には興味が無いんだ」と思われてしまうかもしれないという不安があったこと

などなど、
SNS疲れの理由が少しずつ明るみになってきたのです.

そうして分かったことが、
「私は他者評価の中で生きているな」でした.

「他者からどう見られているのか」
「他者は私という人間をどのように感じているのか」
「他者に嫌われたくない」
「他者からの評価があってこそ自分に存在価値がある」
という考え方で
知らず知らずに行動していたことに気づきました.

第三者の視点は時には確かに必要だと思います.
人間はどうしても自分自身を客観的に見たり、
考えたりすることが苦手だと思います.

けれどそれ以上に私は
「自分自身の主観性」が大事だと思っています.

客観視は出来るけど主観性はない人間は
それこそ「他者によってできた自分という偶像」
でしかないと思う.

「他者からどう見られているのか」ではなく
「私自身はどうして行きたいか」
「私自身は何をしたいのか」
「私自身はどう考えどう感じているのか」

…Instagramを辞めたことによる、
第二次自我確立期の到来ですね(笑)

心理学者のエリクソンがいう、
「青年期」(12歳~18歳)の間にこのような
「自分ってどういう人間何だろう」という
アイデンティティを確立して行くらしいのですが、
だいぶ遅れてしかもインスタを辞めるか辞めないかで
私の「青年期」がやって来たようです(笑)...

人間万事塞翁が馬...なのかな.

とにかく残りの58日間、
社会人になる前に「本当の自分」と
向き合えそうな機会を自分で見つけられて
少し嬉しかったなかしやばこでした.