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[実験メモ07]インサイド・ヘッド2がグッときすぎた第二の思春期


■はじめに■

この記事は映画「インサイド・ヘッド2」および「インサイド・ヘッド」の内容について記述しています。
ネタバレを避けたい方はこの先を読むことはお控えくださいますよう、お願いいたしますm(_ _)m




2つ前の記事で書いたのですが、わたしにとってマイペースを維持するための鍵になっているのは動と静の繋がり・組み合わせです。
そんな中で、映画鑑賞や読書のような静的アクティビティは「動き回って感じること」と「静かにものを考えること」のハブ的役割を担ってくれているように感じています。


◆ようやく出会えた…!

インサイド・ヘッドのことは1作目から気になっていました。
けれど観る機会を持たぬまま2作目の声を聞き、9年も経過していることに苦笑しました。

2作目のあらすじを見た時に「これはさらに面白そう!」と思ったのですが、公開時期はわたしが苦手とする夏。。。
暑さの中で映画館へ行く気概はなく。
待てど暮らせど涼しくなる気配もなく。
ただ日々は過ぎ、諦め…というより忘れていました。

しかし、その後ようやく再来した動のシーズン(=良い気候)をエンジョイすべく旅行をした際、機内プログラムの中に「インサイド・ヘッド2」の文字を発見。思わず「やったっ!」という心の声が漏れてしまいました。

結論から言うと、大っ好きな映画になりました。
ここ数年で自分が悩ましく思ってきたことや最近の自分が考えていることと妙にシンクロして、何度も涙がポロポロと。。。
もし"My Best Movies"のような感じでいくつか選ぶとしたら、確実にその一つです。

◆自分らしさって?(あらすじ)

この作品の大きなテーマと感じられたのは「自分らしさとは何か」でした。

物語の軸として、まもなく高校生になる主人公ライリーの中に存在する

  • 幼い頃から存在する比較的シンプルな感情たち(ヨロコビ、カナシミ、ムカムカ、ビビリ、イカリ)

  • 思春期の訪れとともに新たに登場した感情たち(シンパイ、イイナー、ダリィ、ハズカシ)

という2者の対立構造があります。

ある日、ライリーの(頭の中にある)司令室で「思春期アラート」が鳴り響き、シンパイ率いる新キャラの面々が現れます。
ヨロコビをはじめとする既存メンバー(1作目から登場している)は突然の事態に動揺しますが、温かく迎え入れようと努力します。
しかし、新参者にも関わらず我が物顔で居座るシンパイたちの言動のせいもあり、なかなかうまくいきません。
そして徐々に主導権争いのような状態となり、ヨロコビたちは司令室から追い出されしまいます。

そして、物語が大きく動き始めます。


ライリーの司令室にいるのはシンパイ、イイナー、ダリィ、ハズカシだけになりました。
しかし進学を控えた時期のライリーは新しい環境や人間関係を含めた様々な出来事に直面します。

新しい感情たちはシンパイを中心として必死で操作盤を動かし色々な策を講じますが、それによってこれまでライリーの中にあった自分らしさ(自意識、自我)が大きく揺らぎ始めます。

つまり、思春期になったライリーは葛藤を抱えるようになるのです。

これまでのライリーを支えてきたのは、ヨロコビの願いがこもった「わたしはいい人」という自分らしさでした。ライリーを愛し、彼女のためを思ってこそサポートされた数々の経験によって築きあげられた自我です。

一方でシンパイが作り出したのは「わたしはダメだ」という、まるで自己嫌悪たっぷりな自分らしさです。ただそれは輝かしい未来のための布石として様々な危機回避策を施した結果でした。つまりこれもまた、ライリーのためを思って作り出されたものなのです。

「本来の自分らしさ(「わたしはいい人」)を取り戻せば、きっと解決できる。」ヨロコビはそう考えて頑張ります。
しかしやればやるほど、シンパイは自分の信念を貫こうといっそう躍起になり、事態は一向に収まりません。
そしてライリーはギリギリのところまで追い詰められてしまいます。

…が、みんなの知恵と勇気、仲間を大切に思う気持ちによってその局面をどうにか乗り越え、ライリーは自分を立て直し、新しい自分らしさを生み出します。

◆ライリーと同じだった…

それまでライリーの中に生み出されていた2つの自分らしさ(「わたしはいい人」と「わたしはダメだ」)はいずれも、ヨロコビやシンパイの過度な頑張りによって成り立ったもので、ライリーが自然に生み出したものとは言えない…というのがこの物語の肝だと感じました。

ここでわたし自身の話になりますが、ちょうど最近、自分が
「大人(社会人)としてどうあるべきか」「常識的にどうか」といった思考を優先し、理想の人間像を成立させるべく必死になってきた
ということに気づきました。

そしてそこから
「自分を良くするために、自分は自分に何ができるのか」
と考えるように変えたところ、その理想は思い込みだったのではないかと感じ、自分の本当の気持ちに気づけるようになりました。

つまり、わたしはライリーと似たような状況にあったのです。
それゆえ物語のさまざまな場面が心に刺さり、あんなに泣いてしまったのです。

それに気づいた時、わたしの司令室でハズカシが顔を出しました(きっとフードを被って顔が見えないだろうけれど)。
でもすぐに他の誰か(ヨロコビかな?案外ダリィだったり?)が「第二の思春期」というフレーズを思い出させてくれ、納得しました。


▶︎同じだからこそ

大人になったって、いえ、大人こそ、様々な出来事や社会の枠組み、そして人間関係の影響を受け、何かの感情が過度に頑張りがちです。程度の差こそあれ、多くの人が経験するのではないかと思います。

そうした先に辿り着く第二の思春期は「ミドルエイジクライシス」と言われています。
けれど「危機」と呼ばれるこの時期こそ、その無理に気づいて方向転換できるタイミングなのではないでしょうか。
一旦は深く落ち込んだり、悩んだりするかもしれません。しかしライリーがそうであったように、感情の渦を乗り越えて成長し、新しい自分らしさを生み出せる時だと感じます。

ヨロコビたちが「ピンチはチャンスだよ!大丈夫、あなたならできる!」と応援してくれている気がするのです。

◆インサイド・ヘッド(1作目)

2作目の感動を受け、後から1作目を鑑賞しました。
冒頭でライリーの誕生と共にヨロコビが生まれる場面がまず素敵で、その後もジーンとくる場面が散りばめられていました。

そして深く印象に残ったのは、物語の序盤にある
「成長とともに刻まれる特別な思い出の数々がその人の中に複数の(多面的な)性格を形作り、それらが集まって"その人らしさ"が出来上がる」
という説明です。

それはつまり「どんな思い出を特別枠にするか」によって、あるいは「その人の中で誰(どの感情)がイニシアチブをとっているか」によって、形成されてゆく性格のラインナップは変わり、自分らしさも変わるということです。
2作目のストーリーははまさにそこに起因するハプニングだったのだなと理解しました。


▶︎本当の主人公はカナシミ

前述の通りライリーの司令室に最初に登場するのはヨロコビです。物語もヨロコビの語りで始まり、いわばメインパーソナリティのような感じで描かれています。
しかし、わたしはこの作品のコアはカナシミの存在意義だと感じました。

カナシミが持っている「誰かの寂しさや悲しさ、辛い心に寄り添う力」はとても尊いものです。
寄り添われた人は涙を流し、その涙もまたその人を癒してくれます。

「泣けないでいると辛いよね、泣いていいんだよ」と伝えてくれる(でも言葉をかけるのではなく寄り添いによって感じさせてくれる)のがカナシミの励まし方です。
それはヨロコビが発するポジティブ全開なエールとは真逆だけれど、どちらも必要で、どちらも素晴らしいのです。


▶︎思い出や感情は、時としてグラデーションになっている。

そして、良くないものとされがちな「悲しい記憶」は、悲しいだけで終わるとは限りません。

ライリーの中にある【ホッケーの試合で大きな失敗をした】という思い出の先には、【落ち込んで悲しんでいるところに両親が来て抱きしめてくれた】という愛情たっぷりの思い出と【そこへさらにチームメイトも励ましにきてくれた】という友情に溢れた思い出が繋がっていました。

それを見たヨロコビは「悲しい出来事があったから、嬉しい出来事が起こったんだ」と悟ります。
そしてカナシミが自分にはない長所を持っていること、そしてそんなカナシミが不可欠な存在であることを理解します。

そのヨロコビの姿を見た時、ホロリと涙してしまいました。

◆どんな感情にも意味がある

2作に共通して感じたメッセージは

「自分の中にあるいろんな感情はどれも大切。」

「どれかを排除してしまうと、バランスが崩れて不自然になる。」

「だからどんな感情も、ちゃんと受け止めてハグする。」

「全ての感情が協力して調和した時、本当の意味での自分らしさが(自然と)生まれる。」

ということでした。

これらはわたしがここ半年ほどで強く意識するようになった
「自分の気持ち(心の感覚)を見つめる」
ということにリンクしています。

そう気づいた時、この作品を「見るべきタイミングで見たんだな」と心から思いました。

ライリーとその感情たちに出会えて、よかった。

そして、いつかまた会えることを願っています。

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