記憶と思い出【50代在り来りな私が思うあれこれ】
夫は単身赴任中なので、会話はもっぱらLINEの無料通話でしている。
夜に同じテレビ番組を観ながらどうでも良い感想を言い合ったり、家で一緒に過ごしているのとあまり変わらない気がする。
ある日、最近山登りを始めた夫が
「昔、一緒に高尾山に登った時に…」と言い出して
私
「いやいや、私、高尾山は行った事ないから。私ではない誰かと行った時の思い出でしょ」
夫
「京王線沿線に暮してた時に電車で一本で行けるからと一緒に行ったでしょ」
私
「その期間はとても短く、さらにすぐに妊婦になったのに山登りとか行ったり出来たかな?」
夫
「登山の帰宅後、あなたはもう二度と山登りには行かないと言ってたよ」
私
「1ミリも憶えていない、記憶に全くない…」
本当に一緒に行ったのだろうか?
全く何も憶えていない。
二度と行かないと言うほど大変だったのなら記憶に残りそうなものだが。
同じ体験をしても一方には思い出として残り、他方には記憶にすら残らない事はある。
遥か昔の高校生時代の遠足に行った時に、
私たち4人グループは帰りの集合時間に遅れて、帰りの観光バスに乗り遅れ、取り残された(自分たちが悪いのだが)事がある。
もちろん携帯電話もなく、慌てて集合場所に行った時には担任の先生がポツンと1人で立って待っていてくれた。
先生から怒鳴られる事もなく、みんなでかき氷か何かを食べて電車で帰宅したのだ。
高校時代の思い出の中ではなかなか上位の事件だったのだが、大人になって4人でその思い出話をした時に2人は全く憶えていなかった。
憶えている私と、もう1人の友人が
こうで、ああで、そうそう、こう言う事もあったよね、と話したが他の2人は全く思い出せないようだった。
記憶とは、思い出とは何なのか。
憶えていなければ経験していないのと同じになるのか。
一緒に時を過ごした時間も無になってしまうのだろうか。
しかし、私たちには言葉があり会話がある。
会話を通して思い出を補完し上書きする事も(良くも悪くも)出来る。
さらに自分の体験した事以外の記憶も共有する事も可能だ。
今日は終戦記念日
戦争体験した方々が少なくなっていく中で、過ちを繰り返さないためにも戦争の記憶、平和な日常の思い出を周りの人達と会話によって共有できればと願う。
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冒頭の高尾山の登山でうっすら思い出した事があった。
そう言えば、にしん蕎麦を食べたような…。
次回の電話で夫に聞いてみようと思う。
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