「正しさ幻想」はどうして生まれるのか?(その2)
「正しさ幻想」はどうして生まれるのか?(その2)
前回はいつのまにか「正しさ幻想」にとらわれてしまうセラピストがいることを述べた。
「正しさ幻想」とは「運動には正しいやり方や形がある。それは健常者のやり方、形であって脳性運動障害者は、これを学習するべきだ」という考えである。
どうしてこれが幻想かというと、このアイデアが実現されて麻痺が治って、元通り健常の動きに戻ったなどという科学論文は未だに発表されていない。つまり魅力的なアイデアだが、実現不可能な目標でもある。
ではどうしてこの「正しさ幻想」が生まれてくるのかと考えてみよう。
一つは脳の機能に関する思い込みだろう。脳が運動をコントロールすると考えられている。しかも脳に蓄えられる運動プログラムの様なもので運動を生み出すと考えられがちだ。これを「運動のプログラム説」という。
その説では脳は学習するものだし、使われていない細胞も沢山あるので、運動経験を繰り返せば、新たな運動プログラムが使われていない脳細胞によって再学習されるのではないのかと仮定しているわけだ。あくまでも仮定のアイデアである。
余談だが、新しい理論や説が出るとすぐに「真実が発見された」と捉える人がいる。理論や説は世の中の現象を説明するためのアイデア、仮説に過ぎない。だから真実かもしれないが真実でないかもしれない。そしてそれを支持するもしないも自由だが、あくまでも仮説という「アイデア」に過ぎないということは認識しておくべきだ。
さて、話は戻るが、脳が新しい運動を再学習することができると仮定すると、できるだけ良いと思われる歩き方や形を再学習させたいと思うのは自然の流れである。何が良いかと考えると若い健常者の颯爽とした歩き方が良いと思うのもまた自然の流れである。だからこれを目標にする。
一方片麻痺の方が自分で自然に発見し、熟練する分回しのような歩き方は、健常者の歩き方からは形が異なってしまうので「悪い歩き方」と決めつけてしまう。そして「代償運動」とか「異常歩行」というレッテルを貼ってしまう。
でも麻痺が治せないのに健常者の歩き方を目標にしようというのは大きな矛盾である。目標は素晴らしいが、実現するための手段はないわけだ。
前回も述べたが、人の運動システムは、状況変化に応じて柔軟で適応的な運動スキルを生み出そうとする性質がある。麻痺という状況変化があれば、麻痺があるなりの新しい歩き方を生み出す。それが分回し歩行などになる。
それは麻痺のある体で苦労して、試行錯誤を重ね、発見し、発達させた歩行のための運動スキルである。努力の賜物(たまもの)である。
それを健常者の歩き方や形と違うからといって、やれ「異常歩行」だとか「代償運動」だとか偉そうに指摘するのはお門違いではないか。
何を隠そう、実は僕は実習時代に片麻痺のおじいちゃんの歩行練習に付添ながら、「まっすぐに脚を出して」などと何度も繰り返した張本人である。なんとなく運動の専門家として正しい運動を指導しないと格好がつかないと思っていたからだ。
だがそのおじいちゃんは突然立ち止まり、僕の方を向いて怒鳴ったものだ。「脚が思うように動かんのじゃ!したくてもできんのじゃ!じゃけん(だから)、まずわしの脚を治せ!そしたらお前の言う通りに動かしちゃるわい!」
全くその通りでぐうの音も出なかった。ショックを受けて頭を抱えた(^^;)
でもそれ以来、次のようなことを考えるようになった。
リハビリで大事なのは、麻痺も治せないのに健常者の歩行の形を目指すことだろうか?あるいは歩行の良し悪しを形で判断することだろうか?むしろ1人1人の歩行が違っていることは当たり前のことではないか?まずは運動の形ややり方の違いを受け入れることではないか?
その上で、更に安心・安全な歩行ができるようになること。より速く、より長く歩けるようになること。様々な環境で移動を達成できること。そしてより実用的な、人生に役立つ移動能力の獲得を目指せるなら、それをするべきではないか?
次回は「正しさ幻想」についてもう少し考えてみたい。(その3に続く)
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