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■駒澤大学探検部#1

昭和44年(1969)。「小さな疑問点からの出発」を合言葉に、現代の画一化された社会生活に甘じそれに満足することなく、一人の青年として情熱をもって行動し、その中から人間的な触れ合いを経験し、より人間的になる努力をしよう。

そんな、当時理想と希望に満ちた5人の仲間によって半ば自然発生的に、駒沢大学探検部(KUES.)は生まれた。

駒澤大学以外にも、関東には、アフリカのコンゴで怪獣を探した早稲田大学や、過激な活動でしられる法政大学、そしてメコン川全流航下を成し遂げた東京農業大学など、数多くの名門探検部が存在する。

一方で、駒澤大学探検部にも長い歴史と偉大なる功績がいくつか存在する。そんなあまり世に知られていない探検部の中で、さらにあまり知られていない話を今回はお届けしようと思う。

※備考
駒沢と駒澤についてだが、創部された1969年~1980年代後半までの報告書には「沢」と表記されていたため、「澤」はそれ以降を意味する(ややこしい)。

◆駒大探検部の軌跡

さて、ここからは創部から現代まで、我が部がどんな活動を行ってきたかを説明する。

▼1969(創部)~1970年代

創部期は、活動に必要な装備を揃えるため、アルバイトに追われる。他にもビアガーデン等の経営を通し、翌年までには、そのほとんどを揃えることができた。

新島や北アルプスで合宿をする傍ら、学内では「探検祭」を主催。1971年には、当時のヨット愛好会と航空クラブと合同で「第二回探検祭」を、冒険家の三浦雄一郎氏を招き開催した。

同年に、カヌーと手漕ぎボートによる下田ー大島ー江ノ島の海上ツアーを、翌年には青木ヶ原樹海で新洞捜しや、三宅島サバイバルといった、多方面での活動を行っていた。また、1974年に第一次知床半島遠征を行い、宇登名~羅臼間のゴムボートによる海上ツアーを成功させている。

▼1980年代

探検部としての基盤が整ってきたことから、登山やクライミング、川下り、洞窟など幅広いフィールドで活動するようになる。特に「西表島」には行きがちで、中でも外離島サバイバルや、幻の湖調査、崎山半島縦走隊などは、個人的に傑作だ。いつか紹介したいと思っている。

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幻の湖については、私が所属していた関東学生探検連盟のアカウントの方で紹介しているので、是非ご覧ください。

他にも海外遠征が増え、フィリピンで行った民族調査やインド亜大陸放浪(タイ・インド・スリランカ・パキスタン・ネパールなど)、さらにはアフリカのコンゴで怪獣探しに出かけるなど、段々と過激化していった。

怪獣探しとは、高野秀行さんの著作「幻獣ムベンベを追え」で有名な、アフリカのコンゴにある湖に生息するとされた、コンゴ・ドラゴン(モケーレ・ムベンベ)の事。本にも書かれているが、実は駒沢大学探検部が先に隊を出していたのだ。メンバーは駒大探検部OBの水口公司さんと野々山富雄さんである。

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水口さんは、三宅島ベロンベロン報告書くらいしか知らないが、野々山さんについては、一緒に西表島で活動したOBから詳しく話を伺っている。本にも書かれているが、酒を飲むと大暴れすることから「怪物」として恐れられていたらしい。とても面白いエピソードもたくさんあるので、いつかは会ってみたいと思っている。ちなみに、水口さんは彼の飲み仲間らしいので同じく只者ではない。

しかし、駒大隊は肝心なテレ湖にまでは辿り着けず、止む無く断念。その意思を継ぐ形で、高野秀行さん率いる早稲田大学探検部が二回に渡る遠征を行った。

結果は、、、まぁ本を読んでみて(笑)

▼1990年代

ここから段々と記録が減っていく。私が駒大の地下倉庫で眠る資料達を漁った限りでは、日本オオカミ生息地調査や、トカラ列島で宝探し、アルプス山行、沢登りくらいしか残っていなかった。

また連絡先も1993年以降が繋がらないため、消息を絶っている次第である。もしこの記事を読んだ駒澤大学探検部OBはぜひ連絡して欲しい(です)。

▼2000年代

こちらも、2015年頃まで消息不明。2001年~2007年あたりまではアルバムがあり、そこでは川下りや総武線完歩、山手線一周などの写真が載っている。他にもカンボジアと思わしき写真も残っているが、報告書や計画書が見当たらないため、このあたりから緩いサークルに転身したのだと考えられる。

一方で2004年頃のサーフェスで配られたであろうビラには、「現代でも探検できる!」など、本格的な活動を目指す様子も見受けられた。

本当にわからない、、、。しかもアルバムの殆どに男の男が写っているので、昔から男の頭は変わっていないんだなと強く感じる。

ちなみに私が入部したのが2017年。もちろん探検はおろか野外活動すらもやらない、企画系サークルへと衰退していた。加えて1年生の頃は当時3年の先輩が謎に蒸発し、ほぼ何も活動がなく、つまらない日々を送っていた。

駒大探検部が息を吹き返したのは、世代交代した翌年からである。とはいえ日帰り活動多めのレジャーサークルではあったが、それでも登山や島合宿など、割とアクティブな事ができたので、去年のそれとはマシだった。

以上のように、栄光の創部期、全盛期の80年代、空白の1990年代後半~2000年代といった、よくわからない歴史の中で我が部はここまで存続したのである。

ちなみに、ここ最近の駒大探検部で本格的に活動したのは、私がリーダーを務めた「駒澤大学探検部西表島プロジェクト」通称「K.I.P」のみである。ふふふふ。これやるにも相当苦労したのだがね。

◆駒大探検部の特徴

ここまで駒大探検部の歴史をまとめてきたが、次に我が部の特徴について話そうと思う。まず言えるのが、探検家が、私の知る限りではいないという事だ。現役時代の活動内容とお酒のエピソードから、かなり強い探検部員であったことは間違いない。だがしかし、意外に真面目で、大学卒業後は普通に就職し、家庭を築くという流れが多いようだ。

私が知ってる範囲で卒業後も「探検」していたOBは、野々山富雄さん、野村さん、居川さんの3人くらい。

野々山富雄さんは卒業後もアフリカに二回行ったり、中国で川を下ったりなど多方面で活躍。現在は屋久島でネイチャーガイドを務めている。

野村さんは洞窟を専門にしており、現役時代は他大学から先陣を任せられる程の技術を持っていたという。

居川さんは南米で標高5,000m級の山を登ったり、毎年沖縄の島で飲んだくれたりと、探検部員を思わせるようなことばかりしている。また、今回一緒に西表島で活動したのも居川さんだ。

そして実はもう一人、駒大探検部で最も探検を志していた先輩を知っている。それは「幻獣ムベンベを追え」でも一瞬だけ登場する(故)木村さんだ。

彼は1980年代に行われた川下りの練習中、不慮の事故により20歳という若さでこの世を去った。

私は少なくとも、木村さんが探検部に多大なる影響を与えたと確信しており、次回はそんなディープな話を、少ししたいなと思っている。

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