口づけ
小学生のころ、初めて「口づけ」という言葉を知ったとき、本当にいやらしい単語だと思った。行為をなるべく上品に表現しようと苦心した結果、逆に性的要素が増しているように感じたのだ。「キス」「チュウ」「ブッチュ」などの方が、あっけらかんとしているぶん、まだいやらしくない。ただの呼び名、あるいは擬音にとどまっているためだ。これが「口づけ」と言い換えられると、途端になまめかしいニュアンスが生じ、この語彙を考案した人物が当初想定した以上に性的ポテンシャルが高まっている気がして、小学生の私を惹きつけたのである。「チュウ」は発音すると口がタコみたいな形になってダサかったし、「ブッチュ」は口のまわりがベトベトになりそうで嫌だった。断然「口づけ」派だな、と子どもの私は考えていた。
その後、しばらく経って「接吻」という単語を知ったのだが、「口づけ」のいやらしさには負けていると結論せざるを得なかった。何より「プン」という軽い響きが、行為のなまめかしさを打ち消してしまっているのだ。接吻しても「プン」という音は絶対にしない。ここが弱い。チュッ、ムチュ、などが適切な擬音であり「実際の行為と言葉の響きがかけ離れている」というのが当時の私が下した評価だ。なお、明治・大正の時代には「呂の字」という表現があったらしいが、まったく意味がわからない。何ですか「呂の字」って(どうやら「口と口をつける」という意味らしい)。ここには淫靡なニュアンスなど皆無である。
「ねんごろ」も小学校高学年で覚えたが、当初から気に入っていた。わかる、と思った。言葉の響きが情景を喚起するのである。いまにも男女がゴロンと横になって、みだらな行為を始めそうな感じがするではないか。私は「わけあり」の秘密めいたニュアンスも好きだったが、喚起力という点で「ねんごろ」にはかなわない。「ごろ」の擬音感にくわえて、「ねん」のちょっと甘えた雰囲気もいい。「ねん、アナタちょっとぉ……ごろっ」という一連の流れが容易に想像できるのが、「ねんごろ」のよさである。情景の喚起という点でいうと、時代劇で覚えた「袖の下」にも深く納得していた。一瞬で画が浮かぶ。わいろを「袖の下」と暗喩する、その後ろめたいニュアンスが子どもの私を大いにひきつけたのだ。
「折り入って相談がある」も好きな言い回しだった。おそらく金の無心だろう。申し訳なさそうに身体をクネクネと曲げながら、必死で相談しているイメージが浮かんでくる。いつか自分も折り入ってみたいと思っていた私は、祖母に小遣いをもらう際に「折り入って相談があるのですが……」と切り出したことがあるのだが、祖母は本当に嫌そうな顔をして「知らないよ!」と私を叱ったのだった。小学生がそんな言葉遣いをするのが気持ち悪かったのだろう。これは失礼なことをした。ただ、どうしても一度言ってみたかったのである。
小学六年の頃、やたら血気盛んな大竹先生という男性教師がいて、何かというと生徒を廊下に正座させていたのだが、その際に荒々しい声で「全員おちゃんこダァー!」と叫ぶのはマジでダサいと思っていた。氏は正座を「おちゃんこ」と呼んでいたのだが、なにせ言葉の響きがかわいいので、怒りが伝わりにくいのである。100人以上の生徒をいっせいに廊下に正座させるほど激しい怒りを覚えたのであれば、「おちゃんこ」の号令はないだろうと思っていた。普通に「正座」でいいんじゃないか。なぜ氏が「おちゃんこ」の呼称にこだわっていたのか、いまとなっては謎である。
埼玉に住んでいる親戚のおじさんが「ぼちぼち行くか」と言うのも気に入っていた。おじさんの口ぐせだったのである。「そろそろ」よりスロースターター風な感じも余裕があってよかったし、「まあ、もうちょっとここにいてもいいんだけどね、一応時間とかあるから、移動しましょうか」という雰囲気が好ましかった。惹かれる語彙ではあったが、これはもう少し大人にならないと使えないとも感じていた。小学生は「ぼちぼち」で行動に区切りをつけたりしない。子どものボキャブラリーではないのだ。いつか「ぼちぼち」を言っていい年齢になったら、「そろそろ」から切り替えをしようと思っていたが、タイミングを見失ってしまった。