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文章のシメを考えるのが恥ずかしい

文章を書いていていちばん恥ずかしいのは、文末に必要なシメの言葉を考えるときである。あの恥ずかしさはいったい何だ。いまだに慣れていないし、どうにかシメの文言をひねり出そうとしながら、もうひとりの私が「ああ、いま自分はシメようとしているな」「全体をまとめようとたくらんでいるぞ」と冷静に観察していて、両者の乖離に悩んでしまう。書いている途中はすごくいい調子で、場合によってはそれなりにおもしろいことが言えているような気がするのだが、最後の段にきて、もっともらしく「○○監督の今後に期待が高まる」だとか、「我々はこの問題を考えて続けていかなくてはならない」などとシメの文言を入れようとすると、急に恥ずかしく思えてきて、そのまま海に飛び込みたくなってしまう。

この「ああ、場をシメようとして、それっぽい提言みたいなことしちゃってる〜」という独特の照れくささ。これが自分のブログなら雑に終わっても誰にも迷惑はかからないが、原稿料をいただくような依頼の場合、ちゃんとシメないと失礼なので頑張るしかない。もちろんそこはオトナなので照れを捨ててまじめにやり切るのだが、どうにも慣れず、他の方の原稿を読んでいても、「この人もちょっと恥ずかしい気持ちになりながらシメているな」と人ごとに思えず、いわゆる共感性羞恥っていうんですか、他人のシメに対してまで照れくささを感じてしまう始末。原稿の真ん中あたりを書くのは大好きなのだが、シメを考えるのは実に苦手で、自分内シメ用テンプレート数種を使いまわしながらどうにか凌いでいる状態だ。シメだけどこか専門の業者に外注したいくらいである。

途中で書くのやめちゃうでおなじみ

短い原稿ですらこれほど悩むのだから、長編小説のシメなどもなかなか難しいものがあるはずだ。たとえば「そして私は向かっていく。未来へ、どこへともしらぬ未来へ……」みたいな、もう終わらせる気まんまんですみたいな文章を読むと、シメって難しいなと思うのだ。文章を書く人はどう気持ちの整理をつけているのだろう。そういえば、カフカは最後まで小説を書き切ることができない人で、作品の多くは未完で終わっている。彼の小説は、最後まで書かれていないという部分を含めて傑作なのだが、文学好きからはよく冗談で「あの人書き終わらないからね」などと言われることもある。あるいはカフカは、小説の最後の行を書くことの作為性、取ってつけたようなもっともらしさ、文章をシメることにつきまとう独特の恥ずさに耐えきれなかったのではないか。きっと彼は思っていたに違いない。「だってシメるの恥ずかしいじゃん!」。

そういうわけで、カフカは小説を途中で止めてしまい、私はシメの文言を書こうとするたびに恥ずかしい気持ちになりながら生きている。何で文章には終わりが必要なのかなあなどと、考えても仕方のないことを思いながら。しかしそれを言うなら、テレビ番組でも、ラスト1分の「まとめコメント」みたいなのは確実にあるし、映画だってこう、余韻に浸りつつ雰囲気のある音楽を流してうまいひと言入れる、的な展開はある。ちょっと照れくさいけど、それがないと終わらないから。たぶん何かを終わらせるのって、根本的に恥ずかしい作業なのだと思う。映画の脚本家もまた、エンディングのシメ場面を書きつつ、恥ずかしいと悩みながら「でも、こうしないと終わらないしな」ってあきらめているのだろうか。いずれにせよ、もっと積極的な、恥ずかしくないシメの文言を生み出す必要があり、私自身もすぐれた文末を作れる書き手として成長していきたいと願っている(またしても恥ずかしくなりながらこの文章終了)。

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