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「私はまだかつて嫌いな人に会ったことがない」と、淀川長治さんは言った

映画評論家の淀川長治さんは、1973年に『私はまだかつて嫌いな人に会ったことがない』(PHP研究所)というステキなタイトルの著書を発表されているが、私はまだ淀長さんほどの悟りの域に達することができておらず、嫌いな人結構いる。いますね。申し訳ない。もし彼くらい映画をたくさん見たら、人の欠点など気にならなくなるだろうか(逆に映画を見すぎて、ささいな欠点すら許せない偏屈な人間ができあがる可能性もある)。あと淀長さんは、ヒッチコックを「ヒッチ」と略すのがシブい。話題がそれた。「嫌いな人」との遭遇はたいてい職場になるのだが、思い出すだけでお腹が痛くなってくるような、厄災が服着て歩いてるみたいな人にも数人は会った。これまでの人生経験上、十年に一度くらいはそういったアルマゲドン級の衝突が起こった気がする。

他者との衝突という虚しい経験のあと、大事なのはぱっと忘れて次へ進む気持ちの切り替えであって、なるべく思い出さないに越したことはない。その人に関する記憶をすべて消し去れればいいのにと思うのだが、なぜか私は「嫌いだった人の特徴的な口ぐせや言い回しをあえて取り入れ、自分でも使ってみる」という風習を自分に課している。理由はよくわからない。負けたくないからなのか。宿敵の忌まわしい技を自分に取り込んでパワーアップするみたいな、バトル漫画風、あるいは星のカービィ的な対抗策なのか。とにかく私は、あの恐ろしかった相手が使っていた語彙をこっそり盗用することで、人間関係の苦しみを乗り越え、清算しようとするふしがあるのだ。

たとえば過去の職場にいたパワハラ上司。本当にメチャクチャな人で、当時はかなりたいへんだった。意識高い系で、会議のことをなぜか会議体と言ったりしていたが(タイって何だ)、その人物のメールには「先電」という見慣れないワードがよく出てきた。これはすなわち「以前に送信したメール」の意であり、「先電にて説明あった……」といった使い方をする。メールを「電」と和訳する謎のセンス。私は、それまで使っている人を見たことのない、この妙な新造語をあえて取り込んだ。あの人物と同じ場所で働いていたことすら思い出したくないのに、十年以上経ったいまも、メールを書いているなかで「先電」というワードをあえて使い、そのたびにあのパワハラ上司を自発的に思い出しているのだ。

あるいはこれは、メールに平気で「先電」と書けてしまうくらい、私の心は強くなったのであり、過去の記憶で苦しむような時期はとっくに過ぎたのだ、という自分自身への証明なのかもしれない。私、負けてない。決して「直視できないような過去」ではなく、私はあのアルマゲドン衝突を乗り越えたのだと、脳内にエアロスミスを大音量で流しながら自分の勝利を確信しようとしているのかもしれない。もっとよく考えてみれば、いつか「先電」という言葉の存在すら忘れ、記憶が薄まりきったとき、私は真に勝利するのではないか。そんな気もしている。あと、やっぱり普通に「前のメールで」と言えばいいと思う。

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