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吉村昭『関東大震災』(文春文庫)

祖母の体験した関東大震災

私の祖母は明治生まれで、歯科医になるために福島から上京し、都内(当時は東京市であったので、市内というべきか)の学校へ通っていたという。しかし、そのタイミングで関東大震災が発生し、歯科医をあきらめるほかなく、福島へ戻って助産師になったという経歴がある。いまになってみれば、関東大震災についてもっと話を聞いておけばよかったと残念に思う。子どもだったので、そのような災害があった事実を知らず、歴史に興味もなかったし、祖母との会話はどうにも退屈だった記憶しかない。惜しいことをした。いまなら何時間でも話せそうな気がする。祖母が経験した関東大震災とは、どのようなできごとだったのだろうか。9月1日が来る前に読んでおきたいと手に取ったのが、吉村昭の著書『関東大震災』であった。

『関東大震災』は、文庫で長く読み継がれている克明な記録で、それがいかにとてつもない災害であったかを理解できる1冊だ。震災が起きた東京で、どのような問題が起こったのかが順を追って説明される。家屋の倒壊。東京中が火の海となる大規模火災の発生。急激に広がった炎が原因で起こった旋風は激烈で、何百人もが空へ巻き上げられたという。東京から脱出しようとする民衆で殺気だった駅。飢えや暴力。家を失った人びとの排泄物が路上を埋め尽くし、広がっていく伝染病。大量の遺体が腐敗したまま積み上げられた広場。東京を覆いつくす悪臭。物価の高騰と、暴利をむさぼる商人。こうした事象のどれもが想像を絶しているが、本書でなんといっても重要なのは、「第二の悲劇──人心の錯乱」で描写される流言の拡大と、日本人による朝鮮人への虐殺行為に関する記録だろう。読んでいて恐怖をおぼえる、すさまじい内容だった。

流言の拡大

地震、火災、余震、情報の遮断などによって、錯乱状態に陥った民衆。記録によれば、9月1日の午後にはすでに、「社会主義者が朝鮮人と協力し放火している」という流言が始まっていたという。同日夜の19時には、火災の被害が大きかった横浜市本牧で「朝鮮人放火す」とのデマが流れた。「流言はたちまち膨張し、巨大な怪物に成長した。そして、横浜市内から人の口を媒介にすさまじい勢いで疾駆しはじめた」。銃を持った朝鮮人の大集団が押し寄せてくる、といった流言は、誰もそのような光景を見ていないにもかかわらず、爆発的に増えていく。9月2日午前10時には、「朝鮮人約二百名が略奪、放火」「朝鮮人三千人が住民と闘争中」、同日午後17時30分には「井戸に毒薬を投入せり」とエスカレートしていく。読んでいるだけで、手にイヤな汗をかいてしまいそうな展開である。くわえて、こうした調査の記録がよく残っているものだと驚いてしまう。当時の人は、流言の拡大について事後的に調査をし、記録を残していたのだ。

かかるデマの流布について、著者はこう説明する。「流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上がって口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格を持つ」。流言は、たとえば「六郷河畔で朝鮮人が軍隊と衝突し、行き先を矢口へ変えた」というように詳しい細部があるが、これらがすべて、何の根拠もない作り話であったという点に恐怖を感じるのだ。その細部を創作し、つけくわえた人物が確実に存在する。もし自分がこうした異様な状況にいたとして、冷静を保つことができるかどうか、不安になってしまった。震災の衝撃で異様な興奮状態に陥った人びとが平常心を失い、ありもしない流言に煽られて凶暴化していくという経緯が、震災発生の9月1日から始まり、日を追うごとに悪化していく様子が時間軸に沿って描写されるのが、本書の迫真であった。こうしてデマが広がっていくと、手の打ちようがないという気がする。

恥ずべき歴史こそ直視する

デマを信じ込んだ民衆は自警団を結成し、凶器を持って外へ出ては、通行人を誰何すいかし、国家を歌わせたり、いろはがるたを言わせて、日本人ではないと(個人的な感覚で)判断すれば殺害という暴挙に出ていた。自警団は凶暴化していき、やがては警察すら抑え切れなくなった。自警団が警察へ押し寄せ、かくまっている朝鮮人を出せと叫んで署内へ乱入するといった描写にも、すさまじいものがある。警察や内務省も、朝鮮人来襲が真実なのかデマなのかが判断できず、正式にこの流言を否定したのは9月5日であったという。しかし、こうした流言の否定も、朝鮮人来襲を信じ込んで錯乱した民衆にはまったく通じず、政府や警察は事態を沈静化できなかった。さらには、東京からの避難民が、避難先で流言をさらに拡大させてしまい、埼玉や群馬といった地域にまで朝鮮人への暴力がエスカレートしていく。そのどれもが痛ましい事件だった。

こうした恥ずべき歴史に向き合わず、現実を否定するというのはあってはならないことだと、『関東大震災』を読みながらあらためて思った。日本がこの問題をきちんと清算せずにいたことが、現代になって「払い終えていない負債」として、ふたたびよみがえってきているのではないかと私は思う。デマや事実のねじ曲げは、SNS時代において同様に大きな問題となっているし、歴史否定もまた同様に起こり続けている。そういった意味では、現代にも通じるテーマとして本書を読むことができるのではないか。最後に、あらためて現都知事に言いたい。朝鮮人虐殺には明確な調査記録があり、「諸説」はない。

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