『ドライブ・マイ・カー』と、見なかったふりをすること
自動車に託されたテーマ
村上春樹原作、濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)は、タイトルが示すように、自動車をテーマにした作品です。主人公の家福(西島秀俊)が15年に渡って大切に乗り続ける車、赤いサーブ900はつねに物語の中心にあります。では、この車にはどのようなテーマや意味が託されているのかと、観客はあれこれと考えをめぐらせながら、179分という長尺の作品に向かい合うこととなります。劇中、家福は東京、広島、そして北海道とさまざまな土地を移動していきますが、そのいずれにおいても車は大きな役割を果たしています。家福は役者・演出家として舞台にたずさわっている演劇人。彼は広島で行われる舞台、チェーホフ「ワーニャ伯父さん」の上演へ向けて、東京から車で移動します。現地へ着いた家福はオーディションで役者を選ぶと、さっそく稽古を開始するのでした。
本作でもっとも印象的な場面のひとつに、妻(霧島れいか)の浮気を目撃した主人公の取った行動があります。仕事で海外(ロシア)へ行く予定のあった家福は空港へ向かいますが、天候が原因でフライトがキャンセルされてしまい、仕方なく家へ戻りました。玄関を開けて家に入った彼は、妻が見知らぬ男と性行為に耽っている現場を見てしまうのです。家福は驚きますが、妻に気づかれないよう音を立てず、そっと家を出ると、翌日の便まで成田空港近くのホテルに泊まって時間をすごします。その晩、妻から連絡を受けた家福は「いまウラジオストックのホテルにいる」と嘘をつき、なにごともなかったかのように妻の不貞を看過するのでした。彼は妻への態度を変化させないまま、その後も日常をすごします。
妻と対峙しない夫
なぜ家福は、自分以外の男性を家へ招き入れて性行為をする妻と話し合わなかったのでしょうか。彼は妻の浮気に傷ついていたにもかかわらず、現実には彼女と対峙しません。しかし、主人公が妻に見つからないよう身をひそめて家を出る姿を見ながら、私は「自分もきっと同じ選択をするだろう」という気がしたのです。話し合えば衝突は避けられません。家福は、むずかしい事態に直面するのが怖く、いっそのこと見なかったふりをしたいという気持ちに抗えませんでした。妻を失いたくないため、波風を立てないと選択したのです。彼は妻との関係を維持したいと考えていました。いかに現状の関係性を維持していくか。そこで家福が取ったのは、夫婦関係に問題の兆しが見えていても見ないようにし、表面的にあたかもすべてが順調に進んでいるかのようにふるまう、という方法でした。
主人公は変化を怖れています。浮気について妻と話し合うことになれば、大きな騒動が持ち上がるでしょう。またそうした夫婦間の厳しい衝突にあっては、否応なく自分自身をさらけ出すほかなく、夫婦関係は変質をまぬがれません。妻の内面をのぞき込むことで、これまで見たことのない、どす黒い部分を目にしてしまう可能性もあります。家福はそうした変化を嫌っていたし、醜い自分自身をさらすことや、妻との対峙で生じる衝撃に耐える自信がなかったように見えます。彼は現状維持を求めていたのですが、ものごとはすべて変質していくほかなく、夫婦関係を保ちたいのであれば、現状を維持するためにこそ両者が変化していかなくてはなりません。
あるいは妻の浮気は、変化を避け続け、いつまでも夫婦間に横たわる問題を直視しようとしない夫への挑発にも似た行為であったかのように思えるのです。これでもまだ幸福な演技を続けるのかとばかりに、妻は身をもって問いをつきつけます。このように変化や対峙を嫌う主人公の性格を示すものが、彼の愛車ではなかったでしょうか。古い車を大切に乗り継ぐ主人公にとって、赤いサーブ900は「変化する必要がない自分自身」そのものです。自分以外の誰かに運転されるのを嫌い、車内にいればそのままの自分でいられる安堵の空間としての車に、家福は固執しています。車内では、あたかも時間が止まっているかのようです。
車を手放す
物語前半で起こる自動車事故は、ゆえに、主人公に変化を要請する兆候だったのです。「妻と向き合え」「夫婦関係について腰をすえて話せ」といわんばかりに、家福にとっての安全地帯であり、変化の拒絶を象徴する車に一撃をくわえる不慮の事故は、あるいは彼が変化する最後のチャンスでした。しかし、彼はその機会を逃してしまいます。交通事故によって発覚した家福の緑内障(と視野の欠損)は、本人がどれほど変化から逃げようとしても、身体が先んじて変化してしまっていることの証でした。だからこそ、広島で運転手をつとめた三浦(渡利みさき)と共に向かう北海道への旅は、彼が車を手放すための旅であったと思うのです。家福と三浦は、共に自分にとって大事な人を亡くし、どこまでも続く喪を生きる者としてのお互いに共感します。北海道旅行によって三浦が母の呪縛から逃れ、それと同時に、家福も自分にとってのお守りであった車を三浦へ譲ることができる。主人公はようやく自己を放棄し、周囲に対して身を委ねる覚悟ができるようになります。
こうしてストーリーをとらえていった際、妻の浮気現場からそっと立ち去る主人公の態度に共感してしまった私もまた、生きていく上での変化を怖れる性格なのだと結論づけるほかありません。変わることは難しい。そこで醜態をさらすことへの恐怖もまた大きい。だからこそ、家福が取り返しのつかない過去を悔やみながら、これからも続く喪の人生を受け入れようと決意する場面に胸を打たれるし、代役として「ワーニャ伯父さん」の舞台へ立ち、ようやく車を手放すに至る過程に納得するのです。映画『ドライブ・マイ・カー』とは、車をなにより愛する男が、ふとしたきっかけから出会った他者に「僕の車を運転してくれ」と伝えられるようになるまでの過程を描いたフィルムとして、深い感動を与えるのです。