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親の名前が書けない

親の名前が書けないなどというと、とんだばか者ではないかと思われるが、これには事情があるので聞いてほしい。小学校の頃、何年生だったかは忘れたが、母親の名前を紙に書いたところ、漢字が間違っていたことがあった。それを見た母親が「その字ではない」と誤りを指摘し、正しい書き方を私に教えた。別に叱られたわけではなく、ごく普通の口調で淡々と説明されただけなのだが、なぜか私はその瞬間、言いようもなく恥ずかしい、みっともないという負の感情に支配されてしまった。おそらくそれ以来だと思うのだが、母親の名前を漢字で書くことにとても強い抵抗感が生じたのである。

もちろん母親の名前を漢字でどう書くかは、知識としては理解している。当然ながら、書こうと思えば書ける。しかし「本当に合っているのか?」と考え始めると、意識しすぎたせいか、いくら確かめてもどこかが間違っているような気がして仕方ないのである。棒が一本足りない、余計な点がついている……。どうしても「きちんと書けた」という感覚を得られない。結果、自分が手書きした母親の名前を、母親に見られたくないと思うようになった。この何とも説明のつかない心理は、高校、大学、そして社会人になってからも継続した。そのため、実家へ送る郵便の封筒や宅配便の伝票に、母親の名前を書くことができなかった。郵送で実家へ何らかの手続き書類などを送る必要性がたまにあり、そうした際にずいぶん難儀したのを覚えている。内部から否応なく心理的抵抗が生じ、宛名を書けないからだ。母親の名前を漢字で書こうとすると、それだけで首の後ろあたりがぞわっとするし、気が滅入ってしまって「ああっ、ムリ。ちょっとムリです」と拒否反応が起こるのだ。

対策として、たまに実家へ何かを郵送するときは、かならず父親の名前を書くようにしていた。父親の名前はつねに筆圧強め、余裕でぐいぐい書けるのである。ところが頼みの綱である父親は、私が27歳の頃に死んでしまった。一方、私自身は27歳になっても「母親の名前書けない病」がおさまっていなかったため、迷った末、父親の死後にもかかわらず、父親の名前で実家に郵便物を送りつづけていた。めちゃくちゃである。これは申し訳ないことをした。母親は何も言わなかったが、何でこの息子は死んだ人間の名前で郵便を送ってくるのかとふしぎだったはずだ。もし理由を聞かれたら「亡き父へのトリビュート」「私の心の中では生きている」等の美談にすりかえて押し切るつもりだったが、実際はただ名前を漢字で書きたくなかったのである。

ああ、何だか妙なエピソードを披露してしまった。すべて脚色なしの実話なのだが、本当にわけのわからない経験についてつらつらと書いてしまい、たいへん失礼した。自分でも、親の名前を書こうとしただけでこんなに憂鬱になってしまう理由がわからなくて、世の中にそんな人間いるのかと悩んだものだった。しかし同時に、どうしてもこの経験について書きたいという気持ちがあった。いまこうしてわざわざ自分の恥部を文章にしたためているのは、あるいは類似の経験をした同士が他にもいるのではないか、同じ感情を共有してくれるのではないかという、淡い期待を抱いてのことである。実際いまでもまだ多少、母親の名前を漢字で書くのはイヤだなと思っている自分がいて、これはいったい何なのか、こうなったら病院にいって専門家の先生にでも確かめてもらった方がいいのではないかと悩んでいる。

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