『恋人はアンバー』と、誰にも言えない秘密
1993年までアイルランドは同性愛が違法だった
「ありのままの自分自身を受け入れる」と口で言うのはかんたんだが、実際にそうするのは本当に難しい。2020年公開のアイルランド映画『恋人はアンバー』は、その難しさに関する物語である(日本では現在公開中)。確かに自己を受容することができれば幸福なのだろうが、追い詰められた人物にとってはただの美辞麗句ではないかとも思う。本作に登場する少年を見ながら、なぜだか他人事に思えず、彼の反応や態度のすべてに共感してしまった。どれほど苦しい将来が待っていようとも、「ありのままの自分自身を受け入れる」よりはマシだと思うような厳しい状況に置かれることが、現実には起こりうるのかもしれない。
1995年、同性愛が違法ではなくなって2年後のアイルランド。いまだ同性愛への偏見が強い田舎町に暮らす高校生の少年エディ(フィン・オシェイ)は、自分が同性愛者だとうすうす気づいてはいたが、周囲にはひた隠しにし、父親の期待どおりに「将来は軍へ入隊したい」と公言。高校卒業後に軍人となるため、訓練を重ねていた。エディの同級生である少女アンバー(ローラ・ベティークルー)もまた同性愛者だったが、そのことを周囲にはやしたてられて困っていた。アンバーは、エディと恋人同士のふりをすることで周囲に「普通」であると思わせ、学校生活をすごしやすく変えられるのではと考え、偽装カップルになることを持ちかける。ふたりは示しあわせて恋人同士であるかのように見せかけ、その作戦はうまく行っているように見えたのだが……。
何がエディを追い詰めたのか
アンバーには、みずからが同性愛者であることに開き直って生きていける柔軟性があるが、エディは同性愛者である自己を認められない。他人に助けを求められないだけではなく、「努力すれば女性を愛する人間に変われるのではないか」「気の持ちようで女性とだってつきあえる」と考えるほどに激烈な心理的ブレーキが働いている。ノートに "I am not a faggot"(「僕は同性愛者ではない」の意。なお faggot は同性愛者への蔑称)と繰り返し書けば、同性愛が「治る」と本気で信じているような部分があるのだ。こうした「とてもじゃないが、他人に秘密など打ち明けられない」という孤立無縁なエディの姿に、自分自身の思春期を重ね合わせてしまった私である。これは十代に特有だと思うのだが、私もまた、他人に悩みを相談することなど絶対にできないと思っていた。どれほど難しい状況に置かれても平気なふりをしていたし、もし平気なふりを止めたら、その場ですべてが壊れてしまうような気がしていた。まだ視野の狭い十代では、周囲に助けを求めるなど考えもつかなかったのだった。だからこそ、異様に用心ぶかいエディのふるまいが痛いほどよくわかるのである。
劇中エディは、アンバーに「私はゲイなの。あなたもそうでしょう?」と聞かれても、絶対にそのことを認めない。ここがとても印象的だった。どれほどアンバーが心を開いても、エディはみずからが同性愛者であることを認めるわけにはいかないのだ。なぜならエディにとってセクシャリティの問題は「長らく保留された疑い」でしかなく、彼はその問いにふたをしてなるべく見ないようにしているためだ(あるいは「同性愛者かもしれないし、違うかもしれない」というあいまいな状態を保ったまま、事実を確定させずに一生を終えられる可能性があり、彼はそこにわずかな希望を託している)。もし自分が同性愛者であることを公的に認めてしまえば、その後の人生設計も、家族との関係も、自己イメージも、すべてが変わってしまうのだ。彼の秘密はあまりにも重すぎて、他人と共有などできるわけがない。そうした少年の苦悩が切実で胸を打つのである。
エディをそこまで追い詰めてしまったのはアイルランドの閉鎖的な社会であり、時代の空気だったのかと思うが、こうした苦しさがていねいに描かれ、田舎町の排他性をテーマとした作品につい見入ってしまった。また、1995年のアイルランドでは離婚がいまだ違法であり、同性愛が合法化されて2年しか経っていないと知って、その事実にも驚いたのだった。95年というとついこのあいだのように思ってしまうが、社会はいまよりずっと野蛮だったのであり、少しずつではあるにせよ、社会はいい方向へ変化しているのではないかと感じた。