「ひと口ちょうだい」論
同じ会社で働く男性営業マン4人が、昼食をとるため一緒に定食屋さんへ入るとします。さて、何を頼もうか。アジフライもいい、しょうが焼きもおいしそうだ、コロッケ定食ってのも捨てがたいし、この時期ならカキフライも食べておきたい。誰しも迷いますよね。それなら、4人でそれぞれ別のメニューを頼んで、ちょっとずつわければいいんだけれど、なぜか男性どうしだと絶対にそれはしないのです。しない、というよりは、そんなことは到底許されないという雰囲気がある。これはなぜなのでしょうか。
理由はわからないのですが、「いろいろ頼んで、わけませんか」などという男性は、失礼で非常識な人物だと思われてしまうのです。男性どうしで「ひと口ちょうだい」は通用しない。「ひと口ちょうだい」は、男性どうしの場合、どこか異様なふるまいに見えてしまいます。飲み屋で出てくるおつまみなど、取り分けが前提になっている料理はその限りではありませんが、食べものをシェアしようなどと言い出すと、「こいつは何を考えているのだ」と警戒されてしまう。そのため、定食屋で全員が同じメニューを頼んで、黙々と食べるといったことが起こります。一人前の定食は、注文した人物の聖域であり、他人の領域に踏み込むような無礼は許されない、という暗黙の掟がある。
この「ごはん不可侵条約」が私はずっとふしぎでならないのですが、なぜ男性どうしの関係性では「ひと口ちょうだい」がこれほど忌避されるのかについて、できれば明確な答えを知りたいのです。みんなでわけて食べるのって、楽しくないですか。そして、もし男性どうしが気軽に「ひと口ちょうだい」と言えるようになったとき、この社会はきっとよくなるという確信が私にはある。根拠は全然ないのですが、「ひと口ちょうだい」を忌み嫌う姿勢には、ホモソーシャル社会の抱える問題がひそんでいる気がしてならないのです。同性に自分の領域へ踏み込まれたくないと感じる気持ち、相手と自分が同じ食べものをシェアすることに対する居心地の悪さには、何か厄介なものがあると私はにらんでいます。
英大学教授のイヴ・セジウィックは、1985年発表の著書『男同士の絆』(名古屋大学出版会)で、ホモソーシャルな関係性の成立は、女性嫌悪(ミソジニー)と同性愛恐怖(ホモフォビア)というふたつの要素の同時駆動が条件であると論じました。男性が「ひと口ちょうだい」をこれほどに嫌うのは、ある種のホモフォビアなのではないか。これはあくまで仮説であり、単に思いつきだけでモノを言っている自分自身を否定できませんが、すぐれた知見を持った誰かがこの疑問に答えてはくれぬだろうかと、淡い期待を抱きつつ、この文章を終えることとします。
※ 写真の定食は、下北沢にある yuzuki というお店のアジフライ定食です。このお店はとてもおいしいのでオススメ。私をこの場所で見かけたら、私のアジフライとあなたのほっけ定食を少しずつわけましょう。