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なぜ人を動かすツールが「恐怖」なのか

映画業界のパワハラ告発が後を絶たないが、なぜそもそもそのように周囲を恫喝する必要があるのだろうか。ひとりの映画ファンとして情けない気持ちだ。大声を出されて萎縮した人物は、逆に失敗してしまうのではないか。個人的な経験からも、威圧されて恐怖を感じた後では、気が動転してミスが増えてしまいそうだし、ものごとがうまく行きにくい。効率の観点からはあきらかにマイナスだ。仮にパワハラや恫喝が「狙った通りの場面を撮る」「時間や予算の節約を目指す」といった理由で行われているとすれば、目的に叶っていない。しかし当然ながらパワハラは、こうしたロジカルな理由でなされているわけではないと思う。

人を動かそうとするとき、そのツールとして「恐怖」を使う理由は何なのか。尹雄大の著書『さよなら、男社会』(亜紀書房)では、人間関係における恐怖の使用について論じる部分がある。男社会は権力のベースに恐怖が介在することが多く、「気づけば誰かから支配され、誰かに従うことを受け入れており、恐怖を挟んでの関係しか体験したことがない」人物が多いと尹は推察する。自分より強い者から与えられる恐怖に耐える。自分より弱い者に対して恐怖を与える。こうした指摘には納得できる部分が多い。私自身、過去の経験でも「仕事とは厳しいものだ」というロジックで、理不尽な叱責を受けることは多々あった。そこまで人を脅かす必要ってあるのかと内心で考えながら、私は黙ってそれに耐えた。すべてが無意味だったと思う。

私の推論はこうだ。パワハラを行使する人物は「恐怖が介在しない人間関係はまやかしである」と考えている。真の人間関係には、恐怖が存在しなくてはいけない。恐怖のない、優しいだけの人間関係では何も生まれない。人と人が接する際には絶対に、恐怖で相手をすくみあがらせ、従わせる側面がなくてはならない。だからこそ、ものごとを達成させるために、人間関係には恐怖が欠かせない。これがパワハラを行使する人物の発想なのではないか。仮にその場にいる全員が何の問題もなく仕事を遂行できていても、そこに恐怖が存在しないこと、それじたいが問題となる。「恐怖を挟んでの関係しか体験したことがない」からこそ、恐怖の介在しない状態が生ぬるく、自分がばかにされているような感じがする。みなが機嫌よく笑顔で働いている状態が、すでに屈辱なのだ。パワハラを指摘されて「緊張感だ」と説明するような人物にとっての緊張とは、恐怖で相手がすくみあがる状態を指すと私は思う。

周囲を脅かすことによって、相手に恐怖を与えることで、人間関係に「真実味」「本当らしさ」が生まれるという発想は実にやっかいである。早くなくなればいいと思うが、年長者がこうして恐怖をふりかざすことで、下の世代がそれを学習して自分の内側に取り込んでしまうという悪循環がある。こうしたすべてが、1日も早く完全に消滅すればいいと心の底から願う私だ。

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