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「誰もが認める名曲」にノレない

あまのじゃくな性格が原因で、「誰もが知っている大ヒット曲」や「万人が認める名曲」にうまくノレない。どうにもしらけてしまうのである。思い起こせば、高校時代にビートルズのCDリイシューが始まり、毎月発売されるアルバムを順番に買っていったが、「イエスタデイ」(1965)は聴くのが照れくさかった。同曲が収録された『HELP!』(1965)は好きなアルバムだったけれど、「イエスタデイ」だけは飛ばしてしまっていたのである。イントロの時点でむずがゆい。また私は、一定のキャリアを重ねたミュージシャンがたまに見せる、「いっちょここらで王道のヒット曲作るか」という目論見のもとで発表された(であろう)曲がどうにも苦手で、山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983)も発売当時からあまりノレなかった。決して嫌いな曲ではないのだが、田舎の文化系とんがりキッズだった私は、この曲を部屋でしんみり聴いている姿を他人に見られたくない、と思ってしまっていた。

そんな調子だから、ファレル・ウィリアムスの「ハッピー」(2013)もやはりニガテであった。一聴して「あっ、キャリアを代表するような曲を作ろうとしてる」と思った。売れようとしやがって、と私のとんがりセンサーが反応したのである。当時はまともに聴かずにいたが、なにしろ超絶大ヒット曲なので、ファミレスやらCDショップやらで勝手に耳に入ってくる。どうにもノレない。2013年の私は「サビで "because I’m happy" ってどんだけ陽気なんだよ!」とツッコむような人間だったはずで、他人のしあわせハッピーを祝福できない、すさんだ暮らしをしていたのかもしれない。しかし、最近あらためて「ハッピー」を聴いてみて、心の底からいい曲だと胸がふるえるような思いをしたのである。驚きだった。リリースから10年以上の時間が経って、過去のわだかまりがなくなり、まっさらな気持ちで「ハッピー」を聴いたとき、それは「生きていくなかでたくさんの幸福を感じていこう、そのためにはまず、自分にとってなにが幸福なのかを知る必要があるね」という、すばらしいメッセージと美しいメロディを持った、ステキな楽曲として私の心を満たしてくれたのである。

ごめんファレル。「ハッピー」いい曲だった。気づくのに時間がかかってしまって申し訳ない。かつての偏見を取り除いて音楽を聴いたとき、びっくりするほどの感動がやってくる。そんなできごとがあったものだから、最近見た映画『ロボット・ドリームズ』(2023)のなかでフィーチャーされていた、アース・ウィンド&ファイアーの「セプテンバー」(1978)を聴き直したときにも驚きを覚えたのである。「セプテンバー」。ベタ中のベタ。音源を買ったこともないけど、なぜか歌える系の曲。この曲を好きな人など世界中に何千万人もいるのだから、私があえて聴く必要などないと思うようなタイプの曲。しかし、映画で印象に残り、あらためて心を無にして聴いてみると、これが泣いちゃうくらいステキな歌詞とメロディで、すっかり感動してしまったのである。誰かと思い出を共有するしあわせ、相手と心が通じ合っていることのよろこび。そんな人生のきらめきが、胸に残るメロディにのせて率直に描かれている。愛ってすばらしい。同じ時間をすごすって最高だ。素直にそう思った。

かくしていまの私は、「ハッピー」や「セプテンバー」を聴いてしんみりする普通の人間になった。かつてニューウェイヴに熱狂していた、とんがり少年だった私は、未来のこんな自分を見て失望するだろうか。いや、これは人間としての幅が広がったのだと前向きに解釈したい。過去には気づかなかった音楽のよさが、ようやくわかるようになったのだから。とはいえ正直、まだ「イエスタデイ」はキツいのだが、死ぬ直前くらいにはそのよさがわかるようになる気がする。病院のベッドに横たわった私は「最後に『イエスタデイ』をかけておくれ……」といい、ポールの甘い歌声が流れて、その歌詞やメロディの美しさをかみしめながら死ぬのだ。あと何年生きられるのかはわからないが、たぶんいずれはそんな自分になれそうな気がする。

【あまのじゃくな私が書いたスキンケア本です】


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