『ヒットマン』と、「男らしさ」を持て余した主人公
グレン・パウエルの勢い
リチャード・リンクレイター監督、グレン・パウエル主演のクライムコメディが『ヒットマン』です。『トップガン・マーヴェリック』(2022)以降ぐっと勢いが増し、一気に人気俳優の座に躍り出たグレン・パウエル。「彼でスター・ウォーズを撮ってほしい」「007にはチャラすぎるか」「ガイ・リッチーとは相性よさそうだぞ」など、キャスティング妄想がひろがるスター俳優になりました。本作も好調なようで、グレン・パウエル効果もあってか劇場はほぼ満員。本作は、監督と主演俳優の組み合わせがよく生かされた、スリリングな作品になりました。中盤の冷や汗が出るような展開は、コーエン兄弟を連想させるヤダ味もくわわって、とても楽しめる1本に仕上がっています。劇場内も盛り上がっていましたし、気になる方には見に行っていただきたい作品です。
主人公のゲイリー・ジョンソン(グレン・パウエル)は、これといって目立つところのない地味な大学教授。学校で心理学を教える一方、手先の器用さを活かして、警察に捜査用の機械を納入する副業をしていました。おとり捜査の人員不足に悩む警察から、捜査の手伝いをしてほしいと頼まれたことをきっかけに、殺し屋のふりをする捜査員としての仕事を始めるゲイリー。多くの犯人を逮捕に結びつけ、署内での評価が高い彼でしたが、ある日捜査中に出会った女性、マディソン(アドリア・アルホナ)に心を惹かれ、つい彼女を見逃してしまいます。マディソンにときめきを感じたゲイリー。そのことがきっかけで、ゲイリーはややこしい状況に入り込んでいくのでした。
「無害」はよくないこと?
私が本作を興味ぶかいと思ったのは、アメリカにおけるマスキュリニティ(男らしさ)はいかにあるべきか、というテーマが描かれていることです。主人公ゲイリーはひとり暮らしの教師で、ホンダのシビックに乗り、読書と猫の飼育を日々の楽しみとする、いわば無害な(ゆえに魅力に欠ける)男性です。その無害さは決して否定的には描かれておらず、周囲に尊敬こそされないものの、本人が機嫌よく過ごしているのだから別にそれでいいよね、という前向きなニュアンスが感じられます。しかしひとたび、おとり捜査員ロンに変身したとたん、殺人をも厭わない、冷酷でアグレッシブな犯罪者を演じることで、アクシデント的に「男らしさ」を獲得してしまうのです。それまで、男らしさから距離を取っていたはずの主人公が、おとり捜査をきっかけに男性性の世界へ足を踏み入れ、その世界の居心地のよさや、男らしさが与えてくれる自信に気づく、という展開がこの作品の主題であるように感じました。リンクレイターがこうした主題に意識的であることは、大学の講義場面(共同体にとって有害な人物を暴力で排除するのは正当か、という問い)からも明らかです。
劇中、マディソンを侮辱した男性に銃を抜いてつきつけた主人公は、その後彼女から「あんな風に自分を守ってくれるなんて!」と感激されます。このできごとは主人公とマディソンの行く末を大きく変えるのですが、一連の描写は「男性たるもの、それなりの暴力性が備わっていなければ魅力的とは言えない」というテーマを肯定してしまっています。さらに興味ぶかいのは、主人公がこうした男性性を心から肯定しているのではなく、「なりゆきで殺し屋のフリしたらモテちゃったけど、これでいいのだろうか。まあ、意外に悪くないんだけどさ」という、困惑にも似た感情が残る様子です。彼は自分のなかの男性性の取り扱いに困っているかのようにも見えます。だからこそ主人公は、意中の女性の前で殺し屋のフリがやめられず、ほんらいの無害な自分に戻るタイミングを逸したままになります。男性性という、有害ではあるが効き目の強い道具を使ってみたところ、思いのほかに効果てきめんだった、という実験報告のような映画でもありました。
劇中では「積極的に人生へ挑戦すること」と「内なる男性性を解放し、外へ向けて発揮すること」が混在となっており、主人公自身がその区別をつけられずに迷っている部分が絶妙だと感じるのです。男性がなにかを手に入れるために一歩進もうとするとき、尊敬や成功を勝ち取りたいとき、マスキュリニティや暴力性の力を借りる必要があるのはなぜなのでしょうか。それ以外の手段は残されていないのでしょうか。ベル・フックスの著書『フェミニズムはみんなのもの』(エトセトラブックス)には、「たしかに男性性は有害だが、有害さを取り除いた後で男性がどのようにふるまえばいいのか、まだ具体的に示せていない」という意味の記述がありましたが、まさにその通りの映画だという気がします。この、ユーモラスでスリルに満ちた作品を見ながら、私は本作の先にある「男らしさ」について考える役割を担いたいと感じました。
【無害な中年男性が書いたスキンケア本です】