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奇跡について

世田谷区のとある図書館に、3人の人物がいる。席に座って熱心に本を読んでいるのは山岡という20代の男で、趣味でケーキを作りつづけている。今日は製菓に関する資料を探しにきていたのだ。年数を重ねるごとに、山岡のケーキ作りの技術は向上していき、腕前はプロ級に近づいているのではと本人はひそかに自負している。いつかケーキ屋を開店できたらなどと夢想することもあるが、そんな自分が恥ずかしくなって我に返る。僕はただのアマチュアじゃないか、と山岡は自分に言い聞かせた。

書架を見ているのは、木下という40代女性だ。長らく不動産投資業に関わっており、30代で独立、運も手伝ってか、驚くほどの成果をあげた富裕層である。あくせく働かずとも暮らせる身分にはなったが、何しろ生活にハリがない。喫茶店でも開店すれば、毎日がにぎやかになるだろうかと考えるが、人手の確保がむずかしく、どうにも一歩が踏み出せずにいる。できれば、おいしいコーヒーとすてきなケーキが売りのお店にしたいけれど、そのような人材をどこで雇えるのか、見当もつかない。彼女は今日、喫茶店の開業を学べる本を探しにきている。

一方、備えつけの検索機で貸し出し状況を調べているのは、蓑田という30代の女性である。人当たりがよく、天性の接客業向きだ。彼女の働くレストランにやってきた客はみな、その魔法のような接客に深い満足を得て帰宅する。しかし、勤務先のレストランがコロナ禍で廃業となり、彼女は現在無職。失業保険を受け取りつつ、なるべくお金のかからない図書館での読書で不安をまぎらわせている。蓑田にとっては気の滅入る日々だ。いつかまた接客の仕事がしたい、こじんまりした喫茶店なんかどうかな、と蓑田は思う。

こうした図書館の様子を、天空から神が見下ろしている。神は予測する。木下がオーナーとなり、蓑田が接客担当、山岡にケーキを作らせるとすれば……。この店は途方もなく繁盛する、と神は直感した。この3人が、たまたま同じ日、同じ時間にこの図書館へ集まったのは、何かの予兆ではないのか? 神は即座にシミュレーションを開始する。木下の財力であれば、喫茶店の経営は何の問題もない。また、長年の不動産業での経験から、物件が喫茶店向きのロケーションかを判断する能力にも長けている。統率力もある木下はオーナー向きだと神は評価した。

また蓑田の接客も申し分ない。これまでの仕事で培った経験も生きてくるし、何しろ彼女は手際がよい。神の計算によると、彼女が客を迎え入れることで店の印象はぐっと上がり、83%はリピーターとなる。この数字は驚異的だ。東京都内で接客業に従事する98万7813人に順位をつけた場合、蓑田の順位は38位であると、全知全能の神には分かる。これはとてつもない高順位であり、彼女には人を呼ぶ能力がある。蓑田の希望する勤務先と、木下の開店したい店のイメージが合致しているのも都合がいい。

くわえて、と神は思う。東京でケーキ作りを定期的に行う人は、プロアマ含め1万7258人いるのだが、山岡はそのなかで9番目にすぐれている。神は山岡の技術に驚嘆する。この青年は、グルメ雑誌があわてて取材に飛んでくるような、斬新なケーキを生み出すアイデアとテクニックをすでに持ち合わせているではないか。よくぞ独学でこのレベルに達したものだ。これは確実に行けるぞ、と神はほくそ笑む。

ここで神はあらためて思案した。うまいこときっかけを作ってこの3人をひきあわせ、喫茶店を始めるところまでお膳立てをしてみようか。たとえば木下が床に落とした本を、たまたま近くを通りかかった山岡に拾わせるといったように。神には偶然を引き起こす力があるのだ。その手の些細なきっかけならいくらでも演出できる。この図書館を出発点に彼らがどんな店を作るのか、ちょっとした奇跡を起こしてみるのもおもしろいかもしれない。

しかし、神は考え直した末、3人を引き合わせない。それは余計なことだ、と判断した神は、ただその状況をやりすごす。山岡は本を閉じてひとりで家に帰り、さきほど見た資料を参考にしながらケーキを焼く(その研究の結果、彼の順位は9位から8位に上昇する)。それから山岡は、週末にケーキを焼いて自分で食べ、月曜に憂鬱な気持ちで仕事に出かける生活をつづける。

木下は本を読んでいるうちに、いろいろなことが面倒になり、ため息をついて図書館を出る。木下は喫茶店を始めない。資産投資でお金はひとりでに増えていくが、生活にはますます潤いがなくなる。蓑田は無職の期間が長引くのを避けるため、やむを得ず就職活動をし、これまでの職歴とは無関係な事務の仕事に就く。手際のよさは多少生かされるが、レストランで働いていたときのようなよろこびは得られない。

そして神は、自分が奇跡を起こさなかったことを全く後悔していない。

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