倫理的に間違っているが、爽快である
そのできごとが起こったのは私が中学3年の冬、おそらく2月くらいではなかったかと思う。学年全員が体育館に集まって、卒業式の練習をおこなっていた。私は第2次ベビーブームの世代で、中学はひと学年につき10組あり、各クラスに43人、合計で430人がその体育館に集まっていた。少子化のいまでは信じられない人数である。ごく少数の教師で、どうやってこんな大人数の生徒を管理していたのだろうか。正直なところ、卒業式なんて適当にやればいいのにと思うのだが、やたらに綿密なリハーサルを行うしきたりがあった。退屈な式次第を練習させられる430人の生徒は、椅子に座ったり起立したり、おじぎをしたり歌をうたったりを律儀に繰りかえしていた。そのときである。体育館の真ん中で大きな叫び声が聞こえた。声のする方を見ると、椅子に座っているひとりの男子生徒に向かって、うしろから別の男子生徒が襲いかかり、何度も殴りつけていた。体育館は騒然となった。
殴られていたのは、トモヒロという生徒だった。令和のいま、「番を張る」などという昭和の奇習が残っているかどうかよくわからないが、トモヒロは不良グループのリーダーであり、当時の言葉でいえば、3年の「番を張って」いたのである(学年ごとにひとり、リーダーが選出される決まりだった)。殴っていたのは、不良グループには属していない普通の生徒であった。トモヒロが殴られる様子を見て、一瞬で納得がいった。彼は多くの生徒にいやがらせやいじめ、金銭の強要をしていたし、とにかく凶暴だったので、周囲からはずいぶん恨みを買っているはずだった。たび重なるいじめで堪忍袋の緒が切れた生徒が捨て身の逆襲に出たのだと、体育館にいる全員が一瞬で察していた。背後からいきなり襲われ、無抵抗なまま何度も顔面を殴打されるトモヒロを見ながら、私は思わず快哉を叫びそうになった。ついにやった!
米映画に多く見られる、いじめられている生徒が、いじめている生徒に反撃する場面は、観客をとても複雑な気持ちにさせる。『ムーンライト』(2016)でも、『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(2005)でもいいのだが、いじめられている側が相手を完膚なきまでに打ちのめす逆襲のシーンを見ると、爽快感を覚えてしまう自分を否定できない。おそらく多くの観客がそうではないだろうか? 『ムーンライト』の劇中、主人公が不良の頭に椅子を叩きつける一連のシークエンスは、主人公がみずからの人生を悪い方向へ進めてしまうきっかけであり、その後の主人公を苦しめ続けるターニングポイントになるのだが、それを知っていてもなお、あの場面を見るたびに「思い知らせてやれ!」と溜飲を下げてしまうやっかいな自分がいるのだ。『ネバー・エンディング・ストーリー』(1984)の最後で、主人公の少年がいじめっ子をゴミ箱へ閉じ込めるという描写に、原作者のミヒャエル・エンデは反対したが、意見は受け入れられなかった。『ダイ・ハード』(1988)のエンディングは、過去のトラウマで拳銃を抜けなくなった警官が、テロリストに銃を向けて発砲し、暴力を行使する力を取り戻す展開で終わる。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』(1985)のジョージは、プロムの夜にビフを殴り倒すことで未来を変えた。「倫理的に間違っているが、爽快である」という、こうした描写をどうとらえればいいのか、私はいまだに悩んでしまうのだ。
中学1年のときにトモヒロと同じクラスだった私もまた、2年、3年になってからも彼につきまとわれ、嫌な思いをしていた。トモヒロはあまりにも凶暴で、絶対に逆らうことなどできず、卒業までなるべく関わらないようにするしかないと誰もが思っていて、彼にやり返すなど想像もできなかった。だからこそ、その渾身の逆襲を、あえて3年の生徒がみな揃った体育館でおこない、もれなく全員に目撃させるという、実行者の大胆な発想に感嘆したのである。殴った側の生徒の目的は、単に暴力をふるうだけではなく、その場にいる430人へ向けたパフォーマンスとして彼を打ちのめし、衆人環視のもとで辱め、中学で「番を張って」いる不良の権威をとことん失墜させることにあった。その目論見は圧倒的に成功したと言っていい。騒動のあと、教室へ戻った生徒たちは、熱に浮かれたように「あれはすごい」と話し合っていた。「トモヒロ、実は大したことなかったな」と、誰もがその派手なパフォーマンスに酔いしれていた記憶がある。
とはいえ、いまになって考えてみれば、トモヒロはただの15歳の子どもである。ほんらいであれば、殴られた彼を気の毒だと思わなくてはならない。暴力でなにも解決しないことはよくわかっているし、これからも、この先も、私が他人に暴力を振るうことはないと思う。15歳の少年が、学校中の生徒が見ているなかで何度も殴られることを肯定してはいけないのだが、あの日の光景を思い出すと、言いようもなく爽快で、やり返した男子生徒の決意の方に感情移入してしまうのだ。これまで、あの日のできごとを脳内で何百回となく繰りかえし再生しているのだが、そのたびに心がスッとする自分に困惑してしまう(わけても、複数の教師に羽交い締めにされたトモヒロが、獣のような声を出しながら体育館の外へ引きずられていく場面が気に入っている。彼は面目を保つために一発でもやり返そうとしたのだが、できなかったのだ)。私は野蛮なのだろうか。私自身、自分のなかの暴力性や加害性をどうにかしてなくそうと努力しているのだが、それでもまだ、完全にはなくなりきっていない暴力性があるように感じる。あるいは、こうした暴力性を想像の範疇にとどめておくことで、現実に暴力を行使しないような歯止めが効いているのだろうか。いずれにせよ、こういった暴力性の芽をどう考えればいいのか、私はまだよくわかっていないのである。