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蚊からフリーエージェント宣言される
蚊に刺されなくなって、十年ほど経つ。あるいは、十年よりもっと長いかもしれない。それまでは、夏になると蚊に刺されて痒くなり、翌日に薬局へ出かけて蚊取り線香を買う、というルーティンがあった。煙の出るオールドスクールな蚊取り線香は、いかにも夏という雰囲気が出て好きなのだ。ところが、まったく刺されなくなったので、蚊取り線香を買いに行かなくなっていた。あるとき「そういえば最近、蚊取り線香を使っていないぞ」と気づき、そこでようやく、自分が蚊に刺されなくなったと認識したのだった。これはなぜか。率直に言って、血がおいしくないのだろう。加齢し、くたびれた中年となった私の血はもう、蚊が興味を持たないくらい新鮮さに欠け、おいしくないのだ。悲しい。
なにが情けないといって、蚊の方から見捨てられたのが情けないのである。蚊ってやつは、普段から血を吸いたくてたまらないのだと思っていた。「血ならなんでもいい、とにかく人間の血を吸いたい」という、なりふりかまわぬ貪欲な生き物が蚊なのではないか。それが、蚊の分際で選り好みするってどういうことだ。きっと、舌が肥えている蚊は注文も多いのだろう。蚊が、やや遠慮気味のトーンで私に言う。「あんまりその、伊藤さんの血がですね、吸っても満足度が低いものでして……。喉ごしもいまひとつですし、吸った後に胃もたれするといいますか。個人的には、もっとサラサラした血がいいんですよね。申し訳ないですけど、以降は別のところで吸わせてもらいます」。血を吸われるのは腹立たしいが、刺されないのも妙に悔しい。蚊が私の血を敬遠しているのが情けないのだ。
人間の血のおいしさを評価するアプリ「吸いログ」「ヒトノチスイタイ」でも、私の評価はきっと低いだろう。コメント欄には「あまりおすすめできません」「リピなしです」など厳しい評価が並ぶ。吸いログのポイントも1.5くらいに落ち込んでいるはずだ。蚊のあいだで口コミの悪評が広がり、私の血を吸いに来る蚊がいなくなったのだと思う。なにしろもう十年、来客がないのだ。そんな状態だから、若い人が「また蚊に刺されちゃいました」などと言っているのを見ると、「はあ、自慢ですか」と意味不明な劣等感がわいてくる。吸いログにさんざん悪評を書かれて、客が来なくなった私へのあてつけか。もう、夜中に耳元で「フィーン」と不快な音を立てられて目が覚めることもない。刺されて腫れた皮膚に、爪で十字架の跡をつけて、「キリスト~」と言う遊びもできなくなった。こうなったら、もう店じまいである。
若者より歩くのが遅いと感じたときにも加齢を感じたし、いまだにブラーを新人バンドだと思っている自分に気づいたときにも、老いを自覚せずにはいられなかった。しかし、蚊から見限られ、蚊にすら興味を持たれなくなったとき、私は本当に老いてしまったのだな……と感じた。そんな悲しさを、蚊から思い知らされるとは予想しなかった。これから、脂っこい食事やお菓子を控えて、日々運動し、健康になったら、また蚊は私の血を吸いに来てくれるだろうか。いまの状態は悔しい。蚊に刺されるレベルの上質な血でありつつ、蚊の攻撃を蚊取り線香で防ぎたいのである。自分が蚊の眼中にすらない人間だなんて、恥ずかしすぎてとても人に言えないのだ。
【老いに負けずにスキンケアをがんばる本です】