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『プロミシング・ヤング・ウーマン』と、男性にとって都合のいい社会

泥酔したふりをする女性

「何やってんの、って訊いてんだけど」( "Hey. I said, WHAT ARE YOU DOING?" )と、『プロミシング・ヤング・ウーマン』の主人公女性キャシー(キャリー・マリガン)はドスの効いた声で男性へ問いかけます。泥酔していたはずの女性と合意のない性行為を始めようとしていた男性は、驚いたような表情で女性を見返します。ここで描かれる男性の身勝手さ、愚かさはいったい何なのでしょうか。表面上、コメディタッチであったり、デザイン的に凝っていたりとさまざまな工夫されていますが、根底にあるのは男性による性暴力への怒りと憤りです。男性である私は、作品内に登場する数多くの男性たちの愚かな言動に震撼するほかありませんでした。痛烈な告発として、わけても男性の観客は、本作を謙虚に受け取る必要がある。作品を通じて、何が問題なのかをしっかりと見届けなくてはいけないと思います。監督はエメラルド・フェネル、主演にキャリー・マリガン、ほかにも米コメディアンのボー・バーナムなどが出演しています。

劇中、主人公はとある行動に取りつかれています。バーやクラブなどの盛り場にひとりで出かけ、泥酔したふりをするのです。すると必ず、男性が声をかけてきます。彼らは介抱するふりをしながら主人公を自宅へ連れていき、泥酔して身動きが取れない女性を相手に性行為を開始しようとします。そうした男性が、どのバーにも、どのクラブにも必ずいるのです。主人公は、合意のない性行為が始まりそうになった瞬間に起き上がり、男性に罰をくわえます。何人の男性に罰をくわえたか、処罰が流血沙汰になったか、あるいは口頭での注意でおさめたか、主人公は男たちの名前と共に記録をつけています。かくして本作は、ひとりの女性による復讐譚として観客をぐいぐいと惹きつけていきます。

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社会全体が男性に対して甘い

こうした行動はどうやら何らかの復讐のようですが、物語のある時点までは、彼女がどのような理由でこうした個人的復讐に乗り出したのかはあきらかではありません。あたかも女性版ヴィジランテのような冒頭は映画的にもキャッチーで観客をそそります。なぜこの女性はかかる奇矯な行動を繰りかえすのかと、興味を抱かずにはいられません。主人公は30歳ですが実家住まいのままですが、これはひとり立ちを重視するアメリカでは恥ずべきことで、両親は娘の扱いに困っていました。恋人や友人もおらず、コーヒー店のアルバイトをしながら夜ごと謎のプロジェクトを続けていく主人公。手帳に書かれた正の字(縦棒4本に斜め棒1本)に宿る執念が印象的です。この謎めいたプロットのモチーフが、本作の成功した要因であるように感じました。

『プロミシング・ヤング・ウーマン』に登場する男性はみな揃って、嘆かわしくなるほどに愚かで、性欲に脳を支配されたケモノのように行動します。性が絡んだ瞬間、男性はまるであらかじめDNAにプログラムでもされているかのように、一様に卑しくみじめな態度を取り始めるのです。この見ていて恥ずかしくなるほどの類似性、単一性が繰りかえし描かれることが『プロミシング・ヤング・ウーマン』の特徴でした。どの男性も女性蔑視的で、みずからの満足のみを追い求め、女性を人間として扱う発想がなく、いざとなれば男性同士でかばい合いつつ自己保身に走る。多少はマシかなと思える、元医学大の同級生(ボー・バーナム)ですら、悪しき男性性をときおり表面化させて主人公を失望させます。

さらに重要なのは、こうした性差別、女性の非人間化に対して、男性自身がほとんど何も疑問を抱いていないことです。女性をモノとして扱う態度が、疑うべくもない前提として固定されてしまっている。問題を起こしても罰せられない自分を当然だと感じ、傷つけた相手を思い出すことすらない。身勝手な態度を省みずとも許されてしまう状況が、社会全体が許容し、担保しています。社会が男性に対して甘い。女性からすれば地獄ですが、こうした状況に対して、まさに捨て身で突進していく主人公の姿には荒々しいまでのエネルギーを感じ、胸を打たれずにはいられません。これまでの社会で当たり前だとされていたものごとを変えるタイミングが来たのですが、見終えた私は何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになり、変わらなくてはならない、社会も自分も絶対に変化しなくてはならないと感じるのでした。

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