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『恋は光』と、もう恋愛映画は見たくない

定番のプロット

『ノルウェイの森』の直子と緑、『ドラゴンクエストV』のフローラとビアンカ。主人公の男性が、ふたりの女性からいずれかを選択する話はなぜか人気がある。三角関係は定番のプロットなのかもしれない(そういえば夏目漱石も三角関係ばかり書いていた)。しかし、個人的にこうしたストーリーが居心地悪いのは、どうやっても片方はお断りしなければいけない点であり、自分が悪者になるのは避けられない。傷つく人がいる以上ハッピーエンドとはいかないし、そもそもこうした設定自体が男性にとって都合のいいファンタジーではないかという疑いも生じる。私自身そのような経験がないので、なおさらにファンタジー度は高まるし、そんな「どっちの料理ショー」みたいなことを、生身の人間相手にするのは残酷じゃないか、という気もするのだ。ただでさえ年齢と共に、恋愛映画を見た際の精神的ダメージが高まっていて、心が死にやすくなっている私である。精神への負担が大きい恋愛映画の鑑賞は、医者に止められているのだ。

主人公の西条(神尾楓珠)は大学生だが、江戸時代の武士のような口調で話す変わった青年。幼なじみの北代(西野七瀬)はそんな西条を変わり者と思いつつも、普段から親しくしている友人の女性だ。ある日西条は、大学の教室で忘れ物のノートを拾った。ノートは読書の記録であり、持ち主は東雲しののめ(平祐奈)であった。思わずノートを読んでしまい、東雲の内面に興味を持った西条。東雲は携帯もパソコンも持たず、読書に没頭するマイペースな女性。ふたりは交換日記を始めることとなったが、そこで西条は「恋とは何か」を定義するというテーマを提案、日記を通じてお互いに議論を深めていく。ふたりは論理的な性格も似ており、しだいに意気投合していった。実は西条に秘めた恋心を抱く北代は、東雲と西条がお互いに恋愛感情らしきものを育み始めた状況に苦しみながらも、どうにか平静を装っていたのだが──。

出会いの瞬間

リアリティの線引き

本作のよさは、リアリティがうすめられた脚本や構成だ。こんな風に話す大学生の男女はまずいない。会話も人工的で、そこがよかった。東雲の普段着や、つねにぴんと背中を張った姿勢のよさも、どこか現実離れした印象をあたえる。私はリアルな恋愛映画がとにかく苦手なのである。アメリカのロマンティック・コメディが安心してみられるのは、リアリティが低く、明確に「これは架空の物語です」という世界観の線引きがされていて、実際の恋愛が持つ重さや苦しさが巧妙に回避されているためだ。ロマコメの登場人物は基本ずっとふざけているし、上映時間120分のロマコメであれば、90分経った時点で一度けんかして亀裂が入るが、残りの30分で必ず仲直りして幸せになる。そう決まっている。けんかはルーティンのひとつなので、心配が要らないのだ。『恋は光』も、主人公が「恋する女性から発する光が見える」という特殊な能力を持っている時点でリアリティの線引きが変わってくるし、同じ能力を持つ画家と出会うくだりも、さらに現実味を薄くする効果をもたらしている。リアルな恋愛映画ではないからこそ描ける何かが、『恋は光』にはある。

しかし、それでもどうしても、ときおり現実味が顔を出してくる。たとえば画家の大洲央(伊藤蒼)が、よかれと思って西条と北代に対してかけた言葉と、その間、本当に気まずそうにしている北代の姿。あるいは、西条からの手紙(ノート)を受け取った東雲が見せる表情。いたたまれない。「あっ、これ現実だ」と私は思った。意中の相手が自分を愛してはいない、という酷薄すぎる現実に直面して崩れ落ちる瞬間の痛みが、スクリーンに刻みつけられてしまっているのだ。求愛を断る際に礼を尽くす西条は立派だが、しかしそれでも、愛を得られない者は涙を流すことになる。つらい。これだけ抽象度の高い物語なのだから、勝者も敗者もいないフレンドリーマッチのような遊戯としての恋愛を、のんびりと見せてくれるのではないかと期待していた私だったが、恋愛のリアリティ、マジなやつが急に顔を出してくる展開に精神的ダメージをくらって帰宅したのだった。愛って痛々しくて見ていられない。救心を飲んでしばらく横になろうと思う。

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