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マナーが食レポを作る

自分が思いのほか食レポ好きであることに最近気づいた。見始めると、途中で止められない。その理由が気になり、あれこれと考えてみた結果、「食レポならではの演劇的空間が好き」なのではないか、という結論にたどり着いた。食レポはとても作為的だ。あきらかにわざとらしい。だから好き。ひとたび料理が出てきたとたん、暗黙のシナリオやテーマに沿って、出演者全員が演劇的にふるまい出す感じが何ともいいし、胸がキュンとする理由ではないかと思っている。

重要な前提として、食レポでは出てきた料理を「おいしかった」と表現する決まりがある。結論はわかっているのに、それでも「おいしい」という感想が出た瞬間、私は嬉しい。我が意を得たり。このルーティンを何度でも繰り返してほしいと思う。食レポのルールが今回も守られたことを喜び、いつもと寸分違わぬ結論にたどり着いたことに満足する。食レポには何のサプライズもないし、あってはならない。タレントが「おいしい」と言うのを見て、私は安心に近いような感情を抱くのである。これはなぜなのだろうか。

食レポが始まり、料理を口に入れた瞬間にスイッチが入り、いきなり演劇めいたやりとりが始まるのが私の興味をそそる。笑顔で「おいしい!」と叫ぶ王道パターンは、その伝わりやすさにおいてつねに有効だし、廃れることがない。あまりの美味に驚き、「えっ、ちょっと待ってください、何これ何?」などとあわてふためくパターンも気に入っている。また、おいしすぎて笑い出す、恍惚の表情で天を仰ぐなどの過剰演技も場を盛り上げてくれる。何しろ食レポは演劇空間でなされるのだから、大げさであることは何ら問題にならない。やりすぎなぐらいがちょうどいいのだ。

思うに食レポは、マナーを前提にしなければ成立しないジャンルである。料理を作った人を尊重し、食べた料理を必ずほめなくてはならないというマナーが食レポを作る(Manner Maketh Syokurepo)。食レポをする人は、その瞬間だけは「善良な人間」としてふるまう以外に選択肢がない。どれほど毒舌が売りの辛口タレントでも、マナーに沿って「いい人」になり、食事をほめるほかないのだ。そこにちょっと笑ってしまうのである。

食レポの演劇的空間にあって、実際に料理のできがどうであるかはあまり問われないし、口にした言葉に何割の真実が含まれているかなど、食レポする本人にも判断がつかないだろう。みんなでごはんをほめる。ごはんの前ではみんないい人。世界平和に一歩近づいたような気がする。

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