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もんがまえ省略禁止令

小学3年生の頃、教室でとなりの席に座っていた女の子が、漢字の「もんがまえ(門)」を省略して書くのを見た。左右の離れている部分を一本線でつないで、真ん中にちょこんと縦棒を1本入れる、あの省略形である。初めて見た瞬間、「オトナっぽいな……」と思った。同級生ながら「この人は知的に成熟しているぞ」と、尊敬や憧れのような気持ちを抱いたのを覚えている。

省略形のオトナっぽさには魅了されたが、同時に、私自身はあえて省略形を導入せずにやっていこう、という決意を抱いていた。たしかに省略もんがまえは便利だ。さらには、問、開、聞など応用範囲もかなり広い。おそらくあと半年もしないうちに、この省略形はクラス内での隆盛をきわめ、「門」を書き順に沿って正しく生徒の方が少数派になっていくだろう。省略もんがまえは確実にブレイクすると私は踏んだ。

ならば、むしろ「一度も『門』を省略して書いたことがない」という記録をどこまで伸ばせるかに賭けてみたい。9歳の私はそう思った。それ以来、同記録はいまだ更新中であり、私は人生で一度ももんがまえを省略しないまま現在に至っている。だから何だといわれると返答がむずかしいが、私は一度ももんがまえを省略せずに書く人生を選んだ。そのことをいま、あなたに伝えています。

思えば、私は「未経験な状態をいかに維持するか」にとらわれやすい傾向がある。新しく買った家電の機能が複数あったら、そこまで便利ではなさそうな機能をひとつ選んで、使わない記録を保つようにする。引っ越した家から駅までの複数ある道のうち「このルートだけは通ったことがない」という経路を確保しておく。勤めている会社の手洗い場に蛇口が3個あったら、ひとつ使用しない蛇口を設定する。退社するその日まで、絶対に使わない蛇口を決めておくのだ。 どこかにまっさらの状態を保っておきたい欲求が人一倍ある。

ニュースの遮断もその中に含まれる。たとえば私は「号泣県議」の動画を見たことがない。文字情報や伝聞では知っていても、件の県議が実際どれほど泣いていらっしゃったかは未見である。最初にニュースを知ったとき、これは未経験ボックス行きだなと直感した。世間が騒げば騒ぐほど、一度も見ていない自分をキープしたかった。「佐村河内氏」も未経験ボックスに入れた。世間で何かが話題になると、とたんに未経験ボックス行きかどうかのセンサーが働くのである。佐村河内氏はぴんときた。私はいまだに、あの人が何をしたのかよくわかっていない。そのあいまいな状態が好きなのである。

「PPAP」も未経験ボックスに入れようとしたが、コマーシャルやパロディなどがあまりに多く、さわりの部分だけうっかり耳にしてしまった。志半ばでの挫折。フルコーラスでは聞いていない、などという言い訳はみっともない。もう聞いちゃった。日々SNSを眺めながら、特定の情報だけを遮断するのも思いのほか難しいのである。情報は容赦なく入ってきてしまう。しかし、世の中は思いのほか広い。なかには驚くべき「知らない状態」を貫いている人がいるのではないか、という期待もある。

いま私がもっとも知りたいのは、この日本にコロナウィルスの存在を知らない人が残っているかどうかである。いるかなあ。あるいは、山奥でひとり自給自足の生活をしている人、世間との交流を一切経って暮らしている仙人のような方がいて、いま疫病が全世界を席巻しているなどと知らないまま、のんびり山菜を採って煮たりしているのではないか。もしそんな人物がいたらちょっと嬉しいし、たとえ情報を知らないとしても、その方のソーシャル・ディスタンスは完璧に保たれているので安心だという気がするのだ。

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