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役行者と吉野

役行者という人物をご存知だろうか。読み方は「えんのぎょうじゃ」または「えんのおづぬ(おづの)」。グランドツアーの取材で様々な土地に行ったが、どの土地の歴史を調べても出てくるのがこの人。そしてたいていが「山の断崖絶壁にお堂をたてた」だとか「霊山として開山した」とかそういう云わればかりだ。ここ吉野に来た時も、役行者がいた。しかも吉野が桜で有名になったのは役行者あってこそだった、むしろ役行者なくして今日の吉野は成り立たないのである。先日書いた後醍醐天皇ですら、吉野で南朝を開く理由にならなかっただろう。今回はそんな役行者と吉野について書こうと思う。

役行者は奈良出身、神童と呼ばれ仏教を学ぶ

役行者は634年、飛鳥時代、国号が「倭」から「日本」に変わった頃に奈良で生まれた。幼少より神童とされて、当時伝来してまもない仏教を学んでいたという。修行中に神秘的な大峯連峰を見て金峯山に登り、苦行の末に金剛蔵王権現を感得し修験道の基礎をひらいた。この、修験道というのは大自然の霊気の中で修行を積むことによって人間本来の本能的欲望を断ち切り即身即仏の境地に達しようとする宗教。よく山の頂上に小さな祠があったりするように、古代から日本人の心に根深く生きている山岳信仰のことだ。この修行スタイルを確立したのが役行者、そして発祥の地となったのが吉野だった。

吉野が桜は観光の桜ではなく、祈りの桜の結晶だった

役行者が金峯山で修行しているときに、世の中の人々の救済の道を求め濁った世の中に最もふさわしい仏が出現することを念じた時、金剛蔵王権現という仏様が現れたのだそう。その姿を桜の木で刻み、金峯山寺にご本尊としてお祀りされた。ここ吉野山の桜は決して観光名所にしようとして植えられたものではなく、桜の木をご神木として祈りを込め植えられてきたものだという。自然とともに生きてきた日本人の心が、桜をご神木として敬い信仰の対象を生んできた象徴ともいえる桜は、今、日本一と名高い人々を感動させる吉野山の桜として親しまれています。

役行者は厳しい修験道を実践するあまり、人間離れした能力を身に着けていた

役行者を調べていると、確かに実在した人物だったようだが伝説めいた逸話がいくつも出てくる。嘘みたいな超人のような伝説がいくつもある中で、吉野山に今でも根付いている行事とゆかりのある伝説をご紹介しよう。

奈良の生駒山に住む人の子どもをさらって殺すなど人々に災いをなしている鬼の夫婦がいた。役行者は秘法で鬼を捕縛して、鬼の5人の子どもの末っ子を鉄の釜に隠し、鬼の夫婦に子供を殺された人間の親の悲しみを諭したところ、鬼は改心し以来、役行者に従うようになった。吉野山では、節分になると本来「鬼は外、福は内」と唱えられ全国から追い払われてきた鬼を、「福は内、鬼も内」と唱え迎え入れ、説法で改心させているそうだ。ちょうど取材に行った頃が節分だったこともあり、この風習と巡り合うことができた。桜で有名な吉野山だけど、役行者の色々な功績から、後世に残る様々な文化を知ることができた。

次回は、ちょうど満開間近の吉野山の桜について書こうとおもいます。


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