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camouCollageのクリスマス絵画

幼少期に、3,4年ほど教会に通っていました。

時は1980年代。
その頃の日本は「宗教」に対する警戒心はとても少なかったと記憶しています。

公園で遊んでいると神父様がやってきて、聖書のお話を聞かせてくれたものでした。
いわゆる「宣教」というものです。

そして、子供たちにお菓子を配りながら、よかったらもっとお話を聞きにきませんかと、日曜礼拝のお誘いをいただくのです。


今のご時世だと、とんでもない!!と驚愕する出来事だと思うのですが、80年代の日本では、公園で宣教というのは珍しいことではありませんでした。


当時の私は子供心に、行けばまたお菓子をもらえるに違いないと、ノコノコと日曜礼拝に足を踏み入れました。

その教会は、東京世田谷にある「下馬福音教会」という教会で、プロテスタント様式の、こじんまりとしていてアットホームな所でした。


子供たちは一般の礼拝とは別の時間が設けられていて、聖書の内容をわかりやすくストーリー仕立てで聞かせてくれました。

アダムとイブ、ノアの方舟、バベルの塔、モーゼの十戒、イエス・キリスト、、

まるで「ロード・オブ・ザ・リング」のような冒険物語を聞いているかのようで、とても面白く、知らず知らず聖書の物語が頭に入っていきました。


毎週日曜日になると、献金の100円玉を握りしめて、遊びに行く感覚で通っていました。


一番楽しみにしていたのは、やはりクリスマス。
子供たちでクリスマスの内容にちなんだ劇をお披露目するのですが、その練習や準備が学芸会のようで。一生懸命練習したのを覚えています。

当日は、大きなツリーの下で讃美歌を歌いました。
祭壇にある何本ものロウソクの炎が揺れていて、とても綺麗でした。


イースターには、皆で卵に色を塗りました。
それを教会中に隠してくれて、子供達が見つけるのですが、ワクワクしながら教会中を探し回りました。



毎年夏にはキャンプが開催され、二泊三日の泊まりがけで自然の中を溶け込みながら過ごしました。
キャンプファイヤーの火を囲いながら、聖書のお話を聞きいて、讃美歌を歌いました。



教会はとても居心地が良く、アットホームな雰囲気が流れていました。
毎週、礼拝の後には皆でカレーを食べ、大人も子供も和気あいあいと過ごしていました。
まさに「平和」そのもの。


私にとって教会で過ごした日々は、とても良い思い出になっています。


結局、キリスト教信者になることはなかったのですが、信仰心は人間にとって大事なのではないかと思っています。

生きる事は、なかなか過酷だからです。



はるか昔、日本には八百万の神がいると言われているほど「多神教」の国でした。
どんな場所にも神様がいる。
自然物や使っている道具、なんならトイレにまで神は宿ると伝えられてきました。


日本人の緩い精神性はそこからきているのではないかと思います。

コロナ期、他国では空港が封鎖になったり、外出が完全禁止で物資が配られたり、マスクをつけなかったら罰金など、様々な命令が下されました。

そんな中で日本の対応は一番緩かったと思います。
誘導はあったけど、罰則や強制までは基本なかった。

それは

「それぞれに信じている神様がいるでしょうから、個々に委ねますね。」

という多神教ならではの精神だったのではないかと思います。


世界の宗教観を比率で見ると、キリスト教のように1つの神様を信じる「一神教」が圧倒的に多く、今も昔も宗教が原因で、戦争が勃発し続けているほどです。


そんな中、今の日本は無宗教の国になりつつあります。

その理由の一つとなっている、1945年に終戦した第二次世界大戦による敗北。
日本独自の文化や誇り、そして本来持っていた信仰までもGHQに委ねてしまいました。

さらには1995年3月20日、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件。
言わずともなく、あの出来事はとてもセンセーショナルで、近年で一番宗教観が変わったと思います。

最近では安倍元総理の殺害事件も大きいと思います。

そんな事件が相まって、日本は宗教に対してものすごく警戒心と嫌悪感を抱く国になっていきました。



今の日本で一番信じられているものは「化学」。

「化学」という宗教を信じています。

最近「化学的な根拠を元に」をいう言葉をよく耳にします。
ただそれは、左脳的意味合いを多く含んでいるように感じます。


本来、信仰というものは、右脳的なのではないのかと思います。

見えないものを感じて信じる。
根拠はないけれど、委ねる。

それは左脳のような現実性や理論では言い表せないものです。




前書きが長くなってしまいました。

そんな教会での幼少期を過ごしたおかげか、私は一年の中で一番クリスマスが好きです。


カモコラージュ絵画には、クリスマスにちなんだ絵画が一枚もありませんでした。
何度か試みたのですが、納得のいくものがずっと完成せず。

クリスマスはイエス様が産まれた大切な日。
軽い気持ちでは作れないなと。

カモコラージュのクリスマス絵画制作は、年末シーズンの壁でした。


今年ようやく、意を決して大掛かりな制作に取りかかかり、自分でも納得のいく作品が仕上がりました。

完成した絵がこちらです。


タイトルは
『Gospel (福音)』

(ふくいん)

1、イエス・キリスト言葉行動により啓示された救い教え
「福音」について、聖書の第1コリント人への手紙15:3~5では、①キリストが私たちの罪のために死んだこと②葬られたこと③3日目に復活したこと④使徒たちに現れたこと として定義している。また、ローマ人への手紙1:16において、この「福音」は信じる者に救いを与える神の力であるとされている。

2、喜ばしい知らせ。

https://ja.wiktionary.org/wiki/福音



メインで使用した元の絵画はこちら。


中世に描かれたイエス様の誕生をお祝いする絵です。

私は中世絵画の独特の雰囲気がとても好きで。
まだ遠近法やデッサンが完成されておらず平面的な感じが、素朴で味が出ています。おごりがないというか、見栄っ張りでない。
無機質で排他的、完成されていない感じが惹かれるのだと思います。


一番に注目したのがこちらの部分。

天使がカーテンを持っています。
そのカーテンをよくよく見ると、なんだかヒゲっぽい。


そこで鼻を探します。
とてもとても立派な鼻の持ち主を。

いました!
これ以上立派な鼻を持った人は、そうそういないと思います。


鼻ヒゲ生物の完成。

この部分のコラージュが、この絵の発端となります。


クリスマス絵画なので、この鼻ヒゲ生物をサンタに仕立ててみようかと。


雲の白い髭とサンタ帽をかぶり、サングラスをかけました。



また、もう一枚のポイントとなる、元の絵画はこちら。

イエス様は、人間の罪を背負うために十字架にかけられて、身代わりとなり、人々を救ったとされています。

十字架が燃え盛る背後に、イバラでくるまれたイエス様の心臓。

イエス様の「死」によって人間の罪の罰が免れ、今私たちが生き続けていられている。
キリスト教の大前提になる事柄を、今回クリスマス絵画を制作する上で表現しようと思っていました。


イエス様の「死」の象徴となるもの。
十字架にかけられているイエス様だと辛くなるので、それ以外のものを。


それがこの中央下の部分になります。

十字架にかけられたイエス様の心臓に、祈りの手がそっと包み込んでいます。

イバラからはバラの花が咲いていて、そこには産まれたばかりの小さなイエス様が眠っています。



そもそも、「生」と「死」は表裏一体であって。
私たちは日々死に向かって歩んでいるという状態です。

それって、よく考えてみると、ものすごく辛くてハードな生き方をしているわけで。
病んでもおかしくない状態ですよね。だって毎日、死は確実に近づいているわけですから。


そんな「Born to Die」の人生を誰も止めることはできない。

もう祈るしかないのではないか。

キリスト教だけでなく、あらゆる宗教において、祈ることが前提となっています。

祈りましょう、祈りが全てです、と。


同時に、全体的には喜び溢れる「福音」感を出しました。

おもちゃやオーナメントをはじめ

ヒゲの道を照らしていく、何本ものロウソク。

2023年の干支であるウサギが、トナカイに乗って去っていきます。

柊の実は、自由に歩き回る意志が生まれています。

全体的にファンタジー溢れる、楽しげな絵画となっています。



クリスマスイブの夜、寝る前の高揚感は格別で。
25日の朝に起きると、たくさんのプレゼントが枕元に置いてありました。

教会に通っていた頃、癌で亡くなった母もまだ元気で。
記憶では、いつも家族全員が笑っていました。


幼少期のクリスマスの思い出は、本当に大切で愛おしくて。
その思い出があったから、今まで生きてこれたのではないかと思うくらいです。

幸せそのものでした。



そんな幼少期の幸せな気持ちを、このクリスマス絵画を通して、少しでも感じてもらえれば嬉しいです。




こちらはA1サイズとA3サイズの2種類で販売致します。


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