![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/16536879/rectangle_large_type_2_466e8230521a4d985bfb79cffa3818b4.jpeg?width=1200)
春のひみつ
秘書室では、人事異動がほとんどない。
メンバーが変わる場合として想定されるのは、よほど強い希望があってよその部署に行くか(まずないが)、社長に「あいつはいやだ」と言われてはじき出されるか、定年を迎えるのかの三択のみだ。
秘書室員はたいした技能を必要としないわりにエリート扱いで、一度配属されたらしがみつくのが基本だった。
入社してすぐ男性の先輩に言われたのは、「下(秘書室はビルの最上階にあった)に行ったらほかの社員と口をきいてはいけない」だった。
だらだら世間話をしたりすれば秘書室の品格が問われるということらしい。
同期入社の女の子とも話すなというのは酷な話だった。
みんなが小脇にお財布を抱えて丸の内ランチに出かけている頃、私はぽつんと電話番をしているか、一平米くらいしかない休憩室(というか物置)の中でお弁当を食べるかしていた。
ごくまれに社長の気まぐれで「鰻でも食うか」のコールが入ると、全員で立ち上がらんばかりの勢いで「いいですね!!」とレスポンスし、光速で出前を発注し、「今日の鰻は特別美味しいですね!なあ、君!」「おいしいです!」「おいしい!」と言い続けながらうな重を頬張るイベントはあった。
男性秘書はともかく、女性秘書が優遇されているような実感はまったくなかった。
社長がおじいちゃんで朝が早いため通常の社員よりも2時間ほど早く出社しなければならず、毎日5時起きだった。
たまにフェイントで社長がさらに早く出社してしまうことがあり、そんな日は男性秘書に理不尽に叱られたりした。翌日からしばらくはさらに30分ほど巻きで出社することになる。もちろんそれは男性秘書も全員だ。
朝は早い社長だが、そのままでは夕方までもたないので昼食後に毎日昼寝をしていた。
12時半から15時ごろまで、社長室のロッキンチェアですやすや眠る。
目覚めると手元のチャイムを鳴らす。
それが聞こえたら女性秘書の一人がダッシュで冷蔵庫に行って栄養ドリンクをとり、再び走りながら蓋をあけて社長室に駆け込んで手渡す。もう一人の秘書はその間に薬草茶を沸かし直し、ドリンクが終わった頃にお茶を出す。
そうして二人の女性秘書が社長室にそろうと、「女同士はどうやるか知ってるか」などと聞いてくるのも定番だった。
寝起きで質問のバリエーションがほとんどないのがほほえましかった。
顔ぶれがほとんど変わらない秘書室なので、私が入ったことで秘書室には新しい風が吹き込んだことになる。前任の女性は結婚退職されただけで年配ではなかったが、私よりは10ほど上だったそうだ。
彼女はセクハラに動じず、ろくに返事もしなかったとのこと。
私は私で「やだもう!社長ったらエッチ~」みたいな満点アンサーはできず、真顔で「ふぐりって何ですか?」と聞いたりしていた。
それで「せっかく若いのに、かわいげのない娘だ」などと言われた。それが「仕事ができない」を意味することはよくわかって、悔しいような悲しいような気持ちになったりした。
そんなセクハラ社長だったが、口だけみたいなところはあったし、年も年だし、物理的な女性関係はないだろうなあと思っていた。
が、愛人はいた。しかも三人。
それが私に明かされたのは、入社後一か月経った頃、4月の終わりのことだった。
秘書室に外電が入った。
「△△です。社長につないでいただける?」
やや年配の女性の声だった。
「大変失礼ですが、どちらさまでいらっしゃいますか」
「あたしよ。△△。言えばわかるから、社長につないで」
保留にして、男性秘書たちに伝えると彼らはそれぞれの手元の手帳、あるいは壁のカレンダー見て、「ああ、そんな時期か」と言った。
「僕が出よう」
秘書室長が受話器を取ると「ああ、どうも」と話し始めた。聞いていると、居留守を決め込むようだった。それも、わりとけんもほろろである。
女性の方は社長とかなり親しげな口調だったが、大丈夫なのだろうかと内心ハラハラしていた。
「うむ。まだちびちゃんには言ってなかったね」
電話を切った後、室長は話しだした。(私が小柄だったため、室長には「ちびちゃん」と呼ばれていた)
「コノメダチというのをちびちゃんは聞いたことがあるかい」
首を振ると、室長はペンで何かを書き付けてから、私を手招きした。
メモに「木の芽立ち」と書いてあった。
「女性の中にはね、こう、暖かくなると頭がおかしくなって現実と空想の区別がつかなくなってしまう人がいるんだよ。草木の芽が出る頃にそうなるから、木の芽立ちという。さっきの女性もそうでね。どういうわけか、社長と親しいという妄想があるんだよ。何の関係もないのに、本当だと思い込んでいる」
「頭がおかしい人」というパワーワードにどうリアクションしたものか困っていると、室長は「怖いだろう?」子どもにするように顔をしかめて見せ、ワハハと笑った。
「いや、春が来たなって感じがしますよねえ」
男性秘書たちはそんなことを言い合って笑っていたが、私の心中ではひっかかっていたことがあった。
秘書室の番号は公表していない。男性秘書の名刺には書いてあるが、誰でも入手できるものではない。
少なくともこの秘書室に縁のある人でないと知りえない情報なのは間違いなかった。
社長とまったく関係のない人じゃないのでは? きっちり同じ時期に電話をしてくるのは、何かを約束してるからってことはないんだろうか。
弁当を食べながら先輩の女性秘書に言ってみたら「ロマンチストだなあ」と笑われた。
「まあでも、愛人はいるよ。あたしが知ってるだけで3人。長い人もいるし、私が入ってから始まった人もいる。意外に若い人もね。あんなおじいちゃんでどうするのかって思うけどねー」
「コノメダチ」さんは、4月の終わりにたった一度電話してくるだけで、訪ねてくることも手紙を送ることもないという。それがよけいに気になった。いわゆる気狂いの人にそんな分別って、つくんだろうか。むしろ明確な、強い意思を感じる。
後で調べたらいわゆる春の不定愁訴は、冬の寒さから急激に暖かくなり始めたころに起こりやすく、時期としては3月から4月とあった。あの電話のあった日は、ゴールデンウィーク間近のどちらかというと夏のような陽気の日だった。
月曜の小切手業務のときに、セクハラの合間に「社長はモテますか」と聞いてみた。愛人事情を聞いてみようと思ったのだ。
「なんだおまえ、俺とやりたいのか?」
追及には程遠く、あまつさえその後秘書室で「こいつは俺と一発やりたいそうだ」と言い放つ始末で、話にならなかった。話ができると思った私がばかだったとしか言いようがない。
「大胆だな!ちびちゃん」という室長のどうでもいい援護射撃に苦笑いしながら、私はこの秘書室に満ち満ちる女性蔑視のにおいに気付いた。
彼らだけでなく、当時はそれが当たり前だったから仕方がないといえば仕方がない。だけど私は学校を出たばかりで、学校には男子より成績のいい女子はいくらでもいたし、意見は対等に交わすことができた。
社会に出たとたん同期の男子とはっきりと道を分けられて、秘書という名のメイドになり、お茶を出してセクハラの相手をするだけの人間になってしまったことに対するいら立ちが、このとき初めてトゲトゲとした形をもって私の胸を刺した。
なにがコノメダチだよ。元カノじゃん。捨てた女の扱いに困って狂人扱いしてんじゃねえよ。どいつもこいつも女をバカ扱いしてふざけんなよ。木の芽立ちでおかしくなるの女に限定すんな。男もなるだろ。あと、ちびちゃんてなんだよ。速水真澄かお前は。
私がその後、コノメダチさんの電話を取ることはなかった。二年目には別の部署に異動になったからだ。異例中の異例で新卒入室した私は、さらに異例の異動願を出してしまった。
下に降りてみれば秘書室は裸の王様だった。なんの仕事もしてないことはみんなわかっていて、わけもなく偉そうな秘書室員を笑っていた。
一年遅れでまともなOLの仕事をやらせてもらえるようになった。
異動先の部署のトップは都市銀行からの出向者で、カラオケで「残酷な天使のテーゼ」を歌う変わり者のおじさんだったが、会社生活で一番好きなおじさんだった。秘書室から”下げられて”きた私を「仕事をさせてあげる」と言って管理会計を叩きこんでくれた。
それで知ったのは、秘書室のお金事情がめちゃくちゃだということだった。
通常、秘書室の秘密が漏れることはないが、まさかの異動によってその内部事情に初めてスポットが当たることになった。
次回は、秘書室とお金について書きます。
To be continued…