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耳鳴りと明日と

わたしの左耳はあまり聞こえないけれど、決して静かではない。
24時間365日耳鳴りさんが暮らしているのだ。

「暮らしている」だなんて今は言えるけれど、難聴になって耳鳴りが始まった時はそれどころではなかった。

何をしてもどんな時もなり続ける耳鳴りを自分の手で止めることはできなかった。

パソコンの起動音を何十倍も大きくしたようなウィーンという高い音は常に鳴り、そこからランダムでタイマーの音のような様々な音階のピーという音が鳴り響く。

本を読む時も、誰かと話している時も、寝ようとする時も、どんな時も耳鳴りは鳴っている。
明日もその先もずっとこのままだとしたらどうすればいいのか、耳鳴りが気になって寝付けない布団の中で何度も何度も考えた。

そんな夜を何度繰り返したか数えきれなくなった頃、突発性難聴に対する治療も終わり、聴力が固定した。
難聴が残ったこと、耳鳴りがあることを考えて、補聴器を試してみることになった。

わたしの聴力と聴覚過敏で補聴器が役に立つのか、わたしも先生もそこまでは期待していなかったのだと思う。

しかし、根気よく調整してくれる補聴器屋さんと一緒に補聴器を使っていくうちに、耳鳴りに少しずつ変化が現れた。

音が鳴り続けていることに変わりはないけれど、その音量がちょっとだけ小さくなった気がした。補聴器をスマホに繋げて、音楽を流すようになると耳鳴りから気を逸らしやすくなった。

耳鳴りは聞こえない状態に脳が反応して作り出している音だという。
わたしの場合、補聴器で音を入れることは聞き取りに大きく貢献はしなかったけれど、入れられる音を脳に頑張って左耳から入れることで、耳鳴りが落ち着いた。

ゼロになったわけではないけれど、自分の手で少しましにできる手段を手に入れると、耳鳴りを逃げられない何かから「耳鳴りさん」というわたしの中に住む隣人として見られるようになってきた。

耳鳴りさんが授業中にうるさい時は、「今は頼むから大人しくしといて〜」と思ってみる。

騒がしすぎる耳鳴りさんを宥めるために「どうどう」と言っているイメージで補聴器から音楽を流してみる。

飲み会の帰りに耳鳴りさんが主張してくると「疲れたよね〜ごめんごめん!」と声をかけてみる。

そんなことを繰り返しているうちに、今のわたしは割と耳鳴りさんと「共生」できると思えるようになってきた。

でもそう思えたのは、わたしの感覚を否定せず向き合ってくれる先生や補聴器屋さん、本日の耳鳴りさんの話を面白がって聞いてくれる友だちなど、たくさんの人がいてひとりぼっちじゃなかったからだと思う。

今、耳鳴りに苦しんでいる人に「いつか慣れるよ」とも「いつか治るよ」とも言えない。

誰からも見えない、でも自分では逃げられない音が常に頭に鳴り響く苦痛はことばでは表しきれないものだ。

共生していると言っても、片耳が聞こえるようになることと、耳鳴りがなくなることのどちらかを選べと言われたら、わたしは耳鳴りがなくなることを選ぶかもしれない。
いつか耳鳴りがなくなる日が来たとしたら、嬉しくて嬉しくて仕方ないかもしれない。
それくらい今も、あたりまえだけど、耳鳴りさんのことは好きではない。

それでも今は、耳鳴りさんと一緒に暮らしているであろう明日を考えたって、10年先が心配になることはなくなった。
10年後も、20年後も、もしかしたら耳鳴りさんはわたしの中に住み着いているかもしれないけれど、それなりに耳鳴りさんと喧嘩しながら一緒に生活をして、わたしはわたしの人生を歩んでいけているような気もする。

明日が来るのは怖くない。
だから今日はひとまず耳鳴りを許そうと思う。

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