「雪国」について
川端康成の「雪国」を私は読んだことがないし、話もぼんやりとしか知らなかった
NHKが高橋一生を主演にしてドラマ化したものを英語字幕付きでサブスクに上げていて、劇音楽を三宅純がやっていることで海外でも注目されTwitterにリンクが張られていたことからそのドラマの冒頭部分を見た
その冒頭10分ほどの印象である
この小説が日本で初めてノーベル文学賞をとった作品だという事は知っている
ドラマの冒頭そのことが紹介され羽織袴姿の小柄な作家がよちよちと歩いて大柄な北欧人からメダルを受け取る様子が映し出される
その光景はこれまでに見たことがあったし、その度に誇らしいというより惨めな屈辱感に近いものをいつも感じていた
幼い頃、物心ついてからだが日本でも著名な温泉町に住んでいたので「温泉芸者」の実態も知らないわけではない
あの小さい人が「芸者」を描いた小説で世界で最も有名な文学賞を獲得して国際的な知名度を得たことが不本意でもあり恥ずかしくもあった
そう感じていた日本人が他にいたのかどうか、知りたくもある
あれは嬉しくも名誉でもなく私にとっては屈辱だったと言いたい気持ちはずっとある
だからまずこれは小説の批評ではないし、ドラマの批評ですらない
以上に述べたような気持ちをずっと持っていた1人の日本人の端的な印象である
「国境の長いトンネルを抜けると…」という有名な書き出しは私でも知っていたが、ドラマは主人公の島村の東京の自宅を描く
資産もあり妻と子と女中のいる裕福な作家の実生活が描かれ、そこから仕事のためと言って雪国の温泉へ旅に出る
宿に着いて間もないのに作家は「芸者を呼んでくれ」と宿の女中に言うのだ
酒を飲んでいるわけでもなく、ただ「芸者を呼べ」というのはデリヘルを呼ぶのと変わらない
やって来た女が気の利く美人で作家はその女と関係を持つのを躊躇い、「お前とは友達でいたいから、他の芸者を呼んでほしい」と言ったりする
つまりここで言う「芸者」とは娼婦のことだとはっきりわかる
この男は家庭があるが温泉宿に泊まって娼婦と関係を持つことに引け目も何もなく、当たり前のように思っているのだ
最初に来た気の利く女はそう言われて侮辱されたように感じたらしく怒って見せるが、その後の経緯を見ていて女の側の計算も見えてきた
女は一度東京に「お酌に出た」がすぐに請け出された
ところがその相手が亡くなってしまいこの町に戻ってきたという
これを現代に置き換えれば、東京に出てホステスになったがすぐに金持ちの老人の愛人になり、その金持ちが亡くなったので元いた町に帰ってきた、となる
歳はまだ10代だがその道の手練れだ
私にはその後の女の行動から女の計算が読み取れて不愉快になった
そして計算ずくの女の行動に気分を良くして酔いしれているような男の感情にも不愉快を感じた
冬の温泉宿の小さな閉じた世界の中でそういう些細な感情の機微をやり取りする情景が美しいかといえば、そう見えないこともない
異文化の人々から見たらこの上もなく異国情緒に溢れて魅力的に見えるのだろう
そしてそれが近代日本文学を代表する作品になった
そしてその小説が現代でも人気俳優によってドラマ化されたりもする
今となれば古典でありノーベル文学賞を取ったという権威もあり、NHKにだってそれを扱うことに躊躇いなどありはしない
しかしあのノーベル文学賞授与式の光景に屈辱を感じ、「芸者」という言葉に不快感を覚える、言わば健全な一市民である私はこれを純粋に美しい物語とは受け取れない気持ちになった
ただもちろん芸術である
健全なだけが芸術ではない
芸術にはさまざまな側面があり、そこから美を感じ取るのが芸術を見る喜びだ
だからこれに美を感じることは不可能ではないが、私はたぶんこれまでもこれからも、このような情景に心地よさや癒しを得ることはないし価値を見出すことはできないだろう
作家自身がそれを感知していたかもしれないことを私はあの授賞式の戸惑ったような表情から見て取れる気がしないでもないのだ