見出し画像

思春期vs規範

 8日の土曜日が24時間当直で、数時間おきにやってくる病棟業務や臨時受診には対応していたものの、それ以外の時間は比較的自由だったので、医局で眠ったり、論文や原稿を書いて過ごした。

 ソファに寝転がってウトウトしていたとき、突如ガチャガチャっと医局の扉を開けようとする音がしたので目が覚めた。

 当直は一人でしているので、医局に他の医者がやってくる可能性はなく、では誰?と思って背筋のあたりが冷たくなった。

 まさか暴漢?しかし、暴漢であれば扉をガチャガチャとやるといったマイルドな侵入方法ではなく、金属バットでドアを破壊する。火炎放射器を使用する。韓国ドラマで人を暗殺するときにだけ登場する巨大なトレーラーで医局に突っ込む、などするはずである。

 とすると、まさか幽霊?私には心当たりがあった。雪女ではないかと思ったのである。雪が降ったのは木曜であったが、まだ路面は一部凍結していた。しかし、凍結している可能性があるにも関わらず、私は夏用タイヤで走行していた。非常に危険である。

 本来であれば懲罰などに処されるべき蛮行であるといえるが、いまのところ私を取り締まる法はない。

 しかし、わたしにだって言い分はあり、金曜はさすがに危ないと思って電車で西八王子まで行ったのだ。そういう配慮はしたものの、十分ではなかった。よって、凍結しているかもしれない路面を夏用タイヤで走行した私を、雪女が私刑に処すためにやってきたのではないかと思ったのである。

「尾久先生すみません」

 扉の外で雪女が男の口調でしゃべった。白い服を着ているのが磨りガラスを通して知れたが、どうして男の声なのか、それが分からない。

 死を覚悟して扉を開けると、男の姿で雪女が立っていた。雪女は半袖の白衣を着て、私の医学書を3冊持って立っていた。

「あの、年末に先生の本を買ったのでサインが欲しいんですけど」

 私は看護師に化けた雪女から本を受け取りサインをした。雪女は、今度出る思春期の本は普段高齢者をみている自分とは関係がないのではないかと思って心配しているという話をした。

 私はそんなことはない、と述べた。

 中外医学社から「思春期、内科外来に迷い込む」という國松淳和先生との対談本が発刊される。突然の宣伝に驚いた人がいるかもしれないが、私は最初から宣伝するつもりだったので驚いていない。

 この本は、思春期の診療について述べた本だが、それ以外の内容についても述べているし、そもそも、思春期について色々考えることは、大人について色々考えることに通ずるのではないかと思う。

 対談で話したかどうかは全く覚えていないので収録されてはいないかもしれないが「規範」にどう対峙するか、というのは思春期の一つのテーマだろう。

 私は校則の厳しい中高で育った。

 何が厳しかったか。それは、制限される内容が多岐に渡っていた、というヨコの厳しさがまずあった。頭髪、服装、持ち物といった整容から、異性との交流や挨拶のルール、下校時の寄り道禁止などの行動など、詳しくは忘れてしまったが、とにかくあらゆることに制限があった。

 さらに、校則を破った時の罰が重いというタテの厳しさがあった。とはいえ、起訴されたり、戸籍に細工をされたり、SNSで住所を拡散されたりといった罰は行われなかった。せいぜい、停学や退学であった。

 しかし「次に髪の毛にワックスをつけてきたら停学」といったように量刑が若干重いような気はしていた。私はFくんという友人がそう宣告されている場面を見たが、実際には停学になっていなかったから、ただの言葉の綾かもしれない。

 中学1年生のとき「理科会館の屋上に登ってはいけない」と唐突に注意がなされたのを覚えている。私はそれを聞いて、かえって理科会館の屋上に登ってみたいと思った。しかし、理科会館の屋上に登って推薦を取り消しになり、停学になった高校3年生がいるらしいという噂が流れて、私は恐怖に震えた。

 もし自分の意志に反して、理科会館の屋上に間違って登ってしまったらどうしよう。

 私は模範的な生徒にならないといけないと思い、一日中勉強をすることにした。すぐに一番になった。全ての校則を遵守し、生徒会長になった。感想文の類は端から端まで細かい字で埋めつくし「人生の糧になった」で毎回締めた。

 このような精神状態を、過剰適応という。

 親や教師の期待に答えるために、規範を破るどころか、過剰に遵守し、精神をすり減らし、陰で毎日下痢をしていた。

 なにか一つでも歯車が狂っていたら、受診をすることになっていたかもしれないが、歯車が狂わなかったのは、規範によって嫌な思いをすることがなかったからだと思う。

 高校生になって、モテたくて密かに頭髪にワックスをつけたり、学校の指定していないセーターを着て萌え袖を形成するといった邪智暴虐を働くようになったのだが、まさか尾久がそのようなことをしているとは誰も思っていなかったのだろう。頭髪検査の日ですら優等生バイアスがかかっていたのか私の悪行が露見したことは一度もなかった。

 しかし、まあまあしょっちゅう注意をされている同級生も多く、彼らの一部は、この「制限」の感覚がキツかったのではないかと思う。

 世の中には自由に振る舞うことで整う人というのがいて、良い上司のもとでスタンドプレーなども交えつつ独自の発想や自由なペースの仕事で大きな業績を上げていた人が、上司が規範的な人に変わり、事細かに指示などに従わなければならなくなってから一切の業績が振るわなくなりうつ状態になるということが、非常に頻繁にある。

 中高生でもこれはあって、私の母校に限らず、学校というものはそもそも規範的である。特に法的根拠のない独自ルールが制定され、それに反すると罰が下る。

 しかし必ず一定数、規範ムリ族が存在しており、彼ら彼女らは普通の高校に通っているだけで著しく体調を崩しているのだが、通信制などの自由度の高い高校に転校した瞬間にいきなり元気になって伸び伸びとし始めるということがしばしばある。

 だから規範はないほうがいい、という話では別にない。

 「規範」のもとで生活をさせるというのは、そもそもどういう意味があるのか、意外に根本的なところを考えていなかったなと思ったのである。

 私の場合は、規範があることによって、本当に守らないとやばい校則は守り、ちょっと破っていても大事にはならない建前上の校則は破る、といった微妙な雰囲気を汲み取る力が鍛えられたような気がしている。

 私のように、もともと「自分を罰する自分」がほとんどない人にとっては、他者、とくに権威のある他者の動向が、自分は罰せられるべきかどうか、ということを規定している。

 つまり、相手の顔色を伺いながら自分の行動を都度変容させる、という風にして社会の規範と付き合っていくことになるわけで、中高時代も「校則」という規範を提示された時にわたしはこのようにして対応したわけである。

 一方で、その規範に対して、ことごとく校則を破り反抗する、という形で応答する人もいる。

 と、考えると、校則という規範を提示することは、人格の涵養を促す効果よりも、その提示した学校空間という構造へのそれぞれの生徒の反応の個性を見ているだけで終わってしまう、ということになりはしないかとふと思ってしまった。

 しかし、「あの時厳しくしてもらったおかげで俺は変わりました」などとよくいうように、そこから規範の力で内面が成熟するということもまたあるのかもしれなくて、まあちょっと考えたくらいでは答えが出ないなとも思ったりしたわけである。

 遠野遥さんの新小説「教育」では、学校が1日3回のオーガズムに達することを推奨していたり、他にも常識を逸脱した規範が描かれているのだが、なんの迷いもなく遵守する主人公と、疑いを深めていく真夏というキャラクターが描かれていて、私は最近考えていたこの規範についての考えとどこか重ねながら読んでしまった。つい先程読み終わったのだが面白かった。

 などと色々思考が途中のままなのだが、「思春期、内科外来に迷い込む」と偽者論のマガジンフォローを是非お願いします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?