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空縄自縛

 自縄自縛という言葉は、自分の行った言動により身動きが取れなくなることを言うが、なにかが実行・遂行できないときは、広い意味で自縄自縛に陥っていることが多いような気がする。

 典型的な意味での自縄自縛といえば、例えば「毎日筋トレをしない人間は屑だ、人はおろか真核生物にもカウントできない古細菌だ」などとYouTubeで威勢よく配信し、トレーニング動画をアップロードしたものの、その二日後くらいに筋トレをすることが面倒になり、しかし、あんな大言壮語をしてしまったしなあと思って後悔する、といったことが挙げられるだろう。

 しかしこういうことは実際のところは稀で、大言壮語をしがちな人はともかく、普段から控えめで思ったことをほとんど口にしないタイプの人間などには特に当てはまりづらい。

 どちらかと言えば“空縄自縛”という人の方が多いのではないだろうか。

 これはいま創出した言葉だが、すなわち架空の縄によって自分が縛られているような状態を言う。

 この例としては、「納期は来週の日曜って言われているけれども、3日前くらいに送らないと先方は怒るのではないか?どうしよう、今週は忙しいのに、徹夜しないといけないかもしれない、、、」などと、実際には怒るかどうかもよく分からないのにもかかわらず、書かれてもいないことを勝手に察して自らの行動を縛りつけるような行動が挙げられる。

 なんだか焦りばかりが先行し、かえってやるべきことが進まないときや、やるべきことが異様に立て込んでしまっているときは、この架空の縄に縛られている可能性に思いを巡らせるのが良いだろう。

 さらに解像度を上げて見つめてみると、“空縄自縛”にも二つのパターンが存在していることに気が付く。

 一つは、自分の持っている架空の縄が自分に絡み付いてしまったような状態である。

 すなわち、自分で自分を縛りつけてしまう。というと、自縄自縛とどう違うのか、となるのだが、自縄自縛が自らの言動によって動けなくなってしまうのに対し、こちらは、自らの観念によって動けなくなってしまう。

 例えば応援している地下アイドルのTwitterの投稿にはすべてリプライを送ると決めているおっさんがいたとする。

 そうすると、時には面倒になったり、さらに疫病に罹患した場合などは不調でリプライができない日などもあることが予想される。

 空縄自縛がない人であればここで、じゃあやめてしまおう、となるわけだが、このおっさんの場合は、「自分で決めたことを最後までできない自分はダメだ」などと思い、42℃の発熱をしていても、仕事で5日全不眠であっても、「きゅーちゃんおっはー、今日も、かわいいね、服にあってるよ、お互い、仕事がんばろうね」などと真面目に地下アイドルにリプを送り続ける。

 それに対して地下アイドルも形式的に「ありがとみゅん」「「いっしー@6/17幕張メッセ参戦」さんもお仕事がんばです!!!」などと返信をするわけだが、もはや自分についたリプライすら見る余裕がないほど「いっしー@6/17幕張メッセ参戦」さんは憔悴しきり、結局幕張メッセにも参戦できずに家でまんじりともせずに寝込んでいる、といったことになりかねない。

 しかし、幕張メッセでライブのできる地下アイドルとは。と、ここで疑問が浮かんでくるが、話が逸れてしまうために考えないことにする。

 空縄自縛のもう一つのパターンは、勝手に他人に縄で縛られていると勘違いしている状況である。“他人の空縄”と呼んでもいいかもしれない。

 これは前述した納期を勝手に早めて考えている人が該当する。

 特に、相手が「怒るかもしれない」「怒っているかもしれない」という縄に縛られることが多いように思うが、逆に「納期を待たずして一両日中に商品を納めれば、1000年に一度の逸材と思われるかもしれない。だから今日中に終えよう」などといったパターンの縄に縛られやすい人もいる。

 架空の自分の縄に縛られやすい人、架空の他人の縄に縛られやすい人がいるわけだが、こういった架空の縄があることが圧となって、実際に作業が進むということはあるだろう。

 一方で、心身がどれだけボロボロでも架空の自分の縄は緩むことはないため、実際に作業ができない心身状態の際に自分の縄に縛られると具合が悪くなりやすい。

 また、他人Aの縄と、他人Bの縄の両方に縛られており、その方向性が相反している場合なども具合が悪くなりやすい。

 この架空の縄をして超自我、と呼ばれることがあるが、そういう文脈で考えると架空の自分の縄で縛られるタイプの人は神経症水準で、架空の他人の縄で縛られるタイプの人は境界例水準である。

 50年くらい前の精神科の教科書を読んでいると自分の空縄に縛られている人が多いなと思う一方で、実臨床上、すなわち2022年はどうも他人の空縄に縛られている人が多いように感じる。

 私はといえば典型的な他人の空縄に縛られているタイプの人間で、自分のあらゆるうまくいかないことはここからきていると考えている。

 架空の縄である、と自覚することによって、いくぶん気分は楽になるが、油断するとまた架空の縄に縛られており、そうではなさそうな人が羨ましくみえることもある。

 「偽者論」ではこの空縄自縛に相当する概念を「世間カメラ」という単語で表現したのだが、不思議なことに「偽者論」を書いてから、少しこの空縄自縛が緩んだ気がする。

 散文でも韻文でも、書くことによって次の書くことが見つかるということはしばしばあって、このことと、空縄自縛が今回緩んだことは繋がっていると思う。

 ということで、なのかは分からないが、何かをすることで、次の何かが見えてくることを狙ったわけではないが、Instagramを公開した。(唐突)

 プライベートアカウントしかなかったのだが、この度公開用のものをつくった。Twitterとはまた別の使い方を考えたいと思っているのだが、特に作戦もなく始めたので、どうしたらいいかまだ戸惑っている最中である。

 どうしたらいいか分からなかったため、自分のどアップの写真を投稿をせざるを得なかった。いや、そうしないこともできたはずだ。例えばシーズー犬の写真をアップするとか、夜景をアップするとか。

 しかし私はどうして自分のどアップの写真を載せたのか。盛れたからである。盛れたために、一過性に自己愛が急峻に高まってこのような投稿をし、さらにそれをnoteにまで転載した。このような自分についてはまたなにか文章にする必要がある。さもなければYouTubeを始めてしまったり、TikTokで踊ったりし始めかねないからである。

 ひとまずフォローをよろしくお願いします。いまのところ芸能人の秘密などを暴露する予定はありません。


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