オレンジジュース
きみがぼくの前からいなくなって2時間、状況を把握出来ないぼくは向かいの席にポツンと置かれている氷の溶けて薄くなったオレンジジュースを眺めていた。
ぼくらはいつものファミレスでちょっと遅めのランチを一通り終えて、きみがドリンクバーからオレンジジュースを持ってきた。
そっとオレンジジュースを置くと「別れてほしいの。」と何の前触れもなくぼくの心を切り裂いた。
あまりにも突然で、なにも言えずに固まっていると「部屋にあるわたしの物は申し訳ないけど処分して。わたしの部屋にある荷物は郵送するね。」と言うときみはスッと立って財布から二人分にしては有り余る一万円を財布から出して伝票の下に挟む。
「楽しかったよ。元気でね。」と微笑むと振り返ることなく店を出ていった。
ぼくは頭の整理をするけど、まとまるはずもない。
付き合ってもうすぐ一年半。
小説家志望で必要最低限の生活費をバイトで賄っていたぼくと、しっかりとした企業で正社員として働くきみ。
ついさっきまでデートをして今年のゴールデンウィークはどこに行こうか??とか誕生日なにほしい??とかぼくが欲しがったペンを買ってくれたりと普通というか楽しく過ごしていた。
結婚だって考えてたし、そのためならなれる保証のない小説家なんて諦めて、普通に就職して…って思っていたのはぼくだけできみはいつから別れようと考えて決意したのか、そもそもの理由はなんだったのか、本当に別れたのか、とか考えて悩んでも答えは出なかった。
ここにいても仕方ないので伝票と一万円を手に取り会計をして店を後にした。
きみの置いていった一万円はなんだか使えずに自分の財布から3096円ピッタリ払った。
一万円は折り畳んで財布に入れた。
きみがいなくなって3日。
宅配便が届いた。
宛名はぼくで差出人もぼく。
手紙もなく、きみの部屋にあったぼくの荷物が綺麗に詰められて送られてきた。
ぼくの部屋の至るところにきみの気配が沢山残されていた。
まだ片付ける気にはなれなかった。
もしかしたらドッキリかもしれないし、気が変わってこの部屋を訪れるかもしれないと淡い期待をしていた。
きみがいなくなって7日。
きみがいなくなっても普通に世界は回っていた。
バイトにも行くし、お腹が空いたらご飯も食べるし笑ったりも出来る…なにも変わらない。
ただ、変わらないのは家の外でなにかをしているときだけで、家に入ると一気に寂しさが増した。
まだきみとの生活の匂いが残っていることを感じてため息が出る。
きみは何を思って別れようと言ったのだろう。
そしてきみを忘れることが出来るのか不安にもなる。
きみがいなくなって一ヶ月。
本当に帰って来ないことを自分なりに飲み込んで、きみの荷物の整理をする。
捨てようと思っていたけど、万が一必要になったときみが取りに来るかもとまだ希望を捨てきれず荷物は衣装ケースにまとめてクローゼットの奥に入れておくことにした。
荷物を持ってきみの住むアパートに行ってみようとも思ったけど、拒絶されたり他の人がいたりしたらと考えると勇気が出なかった。
きみがいなくなって半年。
バイトをしているときみを忘れることが出来たと錯覚を起こせる。
その代わり趣味であり夢でもあった小説家というぼくの生きる希望の一つは全く出来ていなかった。
書こうとしてもなにも思い付かず、きみが面白いと言ってくれた小説の文面だけが頭をよぎって、結局書けなかった。
きみがいなくなって一年。
少しずつきみのことが薄れているように思う。
まるであの時残されたオレンジジュースのように氷が溶けてオレンジジュースと交わっていくように、きみの記憶や思いが薄くなった。
もう小説は書いていない。
生活をするためだけに働いていた。
きみがいなくなって二年。
彼女が出来た。
これできみのことを完全に忘れられると思ったけど、きみと比べてしまう。
そんなことしても意味ないのもわかってる。
自分の期待とは裏腹にきみとの記憶がまた甦って来るような感覚だった。
きみがいなくなって四年。
付き合っていた彼女の妊娠をきっかけに結婚することになった。
就職もした。
この部屋ともお別れになる。
きみの気配は随分前に無くなったけど、引っ越しの荷物整理をしているとクローゼットの奥に仕舞ってあったきみの衣装ケースの存在を思い出して引っ張り出す。
さすがにもう処分しなくちゃいけないと開けて中を確認する。
きみがお気に入りだと言ってたワンピースやサンダル、キャラクター物の小物や化粧ポーチ…思い出が溢れ出てくる。
その中からプレゼント包装された細長い箱。
きみがいなくなった日に買ってもらったペン。
ぼくは久しぶりにペンを握り小説を書き始めた。
きみとぼくの話を感情と想いを乗せて書き綴った。
恋人の思い出がオレンジジュースの氷のように溶けていってしまう葛藤と薄くなってもオレンジジュースの味が残るように忘れられない切なさ。
描きたいように書き上げて、きみへの残された思いを昇華させたかった。
小説として残すことによって忘れることを諦め、きみと物語の中で生きていく。
どんなに考えてもきみと一緒にいるためにはどうしたらいいかなんて答えは見つからない。
ただ小説を書き始めて少し経つと、きみの荷物は全て捨てることが出来た。
きみがいなくなって五年。
結婚し子どもが生まれた。
小説が書き上がり。
出版社に持ち込みすると、半分自費出版のような形で本屋に並ぶことが決まった。
タイトルは『オレンジジュース』
変にペンネームは付けず本名で出す。
ぼくが小説を出すときがきたらという話をしていたときに、きみが言った唯一の希望だった。
自分の小説が本屋に並ぶ。
平置きにはならないが、ぼくの名前が本屋で並んでる。
夢でも見られなかった光景で、本当に現実なのかと疑いもしたけど紛れもない現実だった。
正直、全く売れなかった。
でも売上が0ではなかった。
ぼくの本を誰かが手に取ってくれた事実だけで満足だった。
引きずっていた小説家という夢が叶って初めて本当の意味で小説家という夢を諦められて、きみへの想いも良い思い出になった気がした。
きみが最後に置いていった一万円札はまだ使えずにぼくの財布の中にいるけど。
きっと『オレンジジュース』がきみへのぼくなりの答えできみのぼくへの答えだったのかな…とか言い聞かせてぼくはペンを仕舞った。
「別れてほしいの。」
わたしの中で伝えると決めていた言葉。
スイッチを押すタイミングを伺っているような気持ちが1ヶ月位続いてた少し暖かくなってきた頃。
よく来ていたファミレスで一通りご飯を食べてドリンクバーからオレンジジュースを持ってきたその時にタイミングがきた。
オレンジジュースをテーブルに置いて氷がカランっと音をたてるのと同時くらいにあなたに伝えることが出来た。
突然の言葉に何も言えないあなた。
わたしは畳み掛けるように「部屋にあるわたしの物は申し訳ないけど処分して。わたしの部屋にある荷物は郵送するね。」と伝え財布から手際よく一万円を取り出し伝票の下に挟む。
あなたから「なんで??」の言葉が出てしまったらきっと別れられなくなってしまうから、冷静に淡々と「楽しかったよ。元気でね。」と告げてファミレスを後にする。
振り向かない…絶対に…。
振り向いてあなたを見たらきっと戻ってしまうから。
連絡手段は全て断ち切って、すぐにに引っ越しもした。
こうしてわたしとあなたはそれ以降会うことなく、1年半の交際は完全に終わった。
あなたに恋をしたのはわたしで、わたしからの告白で始まった交際だった。
イケメンでもなく私服も少しダサくて、お金もなかった小説家志望のあなたと付き合うことは周りの友だちを驚かせた。
わたしはあなたの小説を面白いと思ったことはほぼないし、わたしから作品を読むことはなかった。
ただ、あなたの小説を書いてる姿が好きだった。
友だちに呼ばれた飲み会で知り合ったあなたはとても奥手だったけど、小説の話となるととてもキラキラして一生懸命だった。
現実主義すぎるわたしは物語を書くような性格ではなかったし、どちらかと言うと無関係なものとして少し冷めた目で見ていたと思う。
だから少年のような目をしていたあなたに興味があって「作品を読んでみたい!!」と言ったんだと思う。
紙で書いていたこともあってあなたの家に作品を読みに行って、書いてる姿を見て惹かれていった。
それをきっかけに押しに押して付き合うことになった。
付き合って一年が過ぎたころ、小説家には全くなれずバイトをしながら小説を書いていたあなたが「そろそろ小説家なんて諦めて、ちゃんと働いて結婚考えなくちゃいけないね。」って言ってきた。
もしも、わたしのせいで小説家を諦めることになったら、きっとあなたは後悔するだろうし、わたしも後悔することになる。
だから別れる…一方的なのはわかってるけど…わたしのエゴだともわかってるけど…その別れ決意は少しずつ湧き上がっていった。
そしてあの日、オレンジジュースを置いた瞬間に自分も驚くくらい突然に言葉が自然と出てきた。
「別れてほしいの。」
あなたと別れて五年。
本屋で懐かしい名前を見かけた。
五年ぶりに見るあなたの名前。
同姓同名もあるかもと思い手に取り背表紙の作者プロフィールを見ると少しだけ老けたあなたの顔。
懐かしさと嬉しさの混じり会う嬉しい感情に包まれる。
タイトルは『オレンジジュース』
まさかと思って読んでみると7割フィクションの小説。
わたしとあなたの物語。
自分自身のことだからか初めてあなたの作品を少しだけ面白いと思い、そのままレジに向かった。
その後、本屋さんであなたの名前を見ることはなかった。
ネットで検索しても出てこないし、『オレンジジュース』以降の作品も無かった。
あのとき買った本は、何度も読み返してる。
初めて可愛いブックカバーも買った。
あなたが今、どこでどんな生活をしているのかもわからない。
でも、たった一冊だったかもしれないけど、小説家として本が本屋さんに並んだと言うことは、あの時の別れたわたしの一方的な想いは正しかった…って信じてる。