【雑文】日本における黒人奴隷より、ヨーロッパ人による日本人奴隷貿易に注目したい
日本における黒人奴隷問題が注目されているようなので、5冊ほど手元の本を読み返してみました。私としては寧ろヨーロッパ人による日本人奴隷貿易に注目して欲しいと思います。
日本に来た黒人奴隷は、宣教師などが連れてきた極小数のみが確認されています。織田信長の小姓として知られる弥助は、イエズス会の宣教師ヴァリヤーノが日本に連れてきて、信長が譲り受け「奴隷ではなく」家臣としています。「信長記」には「彼男健やかに器量也爾も強力十之人に勝タリ」と描写されており、当時の人々に高く評価されたことがうかがえます。
一方で、海外へ連れ去られる日本人奴隷は数多くの記録に残っています。秀吉の御伽衆だった大村由己の「九州御動座記」には、「日本仁を数百、男女によらず黒船へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけ、舟底へ追入れ、地獄の呵責にもすぐれ」との記述があります。「イエズス会日本報告集」によると、1587年6月、秀吉は日本人奴隷の扱いをめぐって、イエズス会日本支部副管区長のコエリョと口論になりました。コエリョは日本人奴隷の売買については、日本人が売るから悪いとし、どうしても止めたいのならば秀吉が禁止すればよいと突き放し、その後の「伴天連禁止令」へとつながったと考えられています。イエズス会は日本の奴隷貿易に対して肯定的な姿勢を見せていましたが、1598年長崎で開かれた会議で日本のイエズス会士が日本人奴隷貿易を非難した記録が確認できます。「伴天連禁止令」によって、慌てて表層的に対応を変えたと言えるでしょう。
1550年代からポルトガル人を始めとするヨーロッパ人は日本人や中国人を奴隷としていました。イエズス会士はその貿易の仲介者になって、奴隷を買うことを許可する公認証のようなものをポルトガル人に発行するようになったことが研究で明らかになっています。国家やキリスト教を含めたヨーロッパ社会全体が日本人奴隷貿易に賛同し協力していたわけです。
私の住むカンボジアでも17世紀には、オランダの東インド会社が「カンボジアと日本との貿易はオランダに独占を認める」要求をしたりと、日本とのつながりも見えてきました。カンボジアも含む東南アジアにおける、奴隷も含めた日本人の痕跡について、これから調べてみたいと思っています。
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